2017年10月16日(月)
【発音のコツ】
zh (無気) ー ch (有気):
舌をいくらか、のどの方へ引き、スプーンの形にするつもりで、舌先を歯ぐきよりやや上方の、上あごの落ちこんだところへ向けてそり上げ、舌先の裏側をつけて「チ」といいます。
zh は無気音ですから息をおさえて出し、ch は有気音ですから息を強く出します。
sh, r:
舌をそり上げるところまでは上の zh や ch と同じですが、 sh と r は舌先の裏側を上あごに近づけるだけで、そのすき間に息を通し、sh は「シ」、r は「リ」を発音すると、それぞれsh, r となります。
(興水優 『メモ式 中国語早わかり』 三修社 1992、P.11)
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・・・言葉で説明するのがどだいムリというもので、お手本を聞きながら愚直に練習するしかない。「食べる」を意味する「吃」(「どもる」にあらず)が chī なので、舌をそり返しながら「チー」「チー」と繰り返し、「Wǒ chī wǎnfàn」とか「Wǒ chī zǎocān」とかやってみるが、回りからは首を締められてうぉうぉ苦しがってるとしか見えそうもない。
さらに難しい(と思われる)のが sh だの r だので、「日本人に最も難しいのが日本人の発音」と朱字のメモにある通り、rìběnrén (日本人) がどうにもそれらしく聞こえない。この土日は朝早く出て高田馬場経由で西武線を乗り継ぐ道すがら、思い出しては練習していたが、「具合、悪いんですか?」と声をかけられそうでずっと回りを気にしていた。
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面接授業では、受講者の意欲・熱意にいつもながら脱帽する。僕はと言えば座って話すということができないので、立ちっぱなしの授業を85分×2日で8コマ、首から上も下もいい運動だが、不思議なことにこれで体重は決して減らない。二日目を終えさすがに疲れて帰宅したら、金曜日に注文した『荀子』(上・下)が早くも配達されていた。御褒美をもらった気分である。
さっそく開く上巻劈頭
君子曰く、学は已むべからず。青はこれを藍より取れども藍よりも青く、冰(こおり)は水これを為せども水よりも寒(つめ)たし。
(巻第一 勧学篇第一)
何と「出藍の誉れ」は『荀子』が語源であったのか、のっけから驚いた。かつその文脈である。
干越夷貉の子、生まれたるときは而ち声を同じくせるも、長ずれば而ち俗を異にするは、教これをして然らしむるなり。(同上)
人の子の生まれは蛮族でも変わらない、教育が差異を作るという。19世紀の教育理論ではない、紀元前3世紀の思惟の産物だ。ついでにまた思い出すチェーホフ、作中人物の語るロジックのこと。
「現代(石丸註: 19世紀後半のロシア)の女は中世の女たちのように涙もろく、心情が粗雑である。だから私が思うには、女にも男と同じ教育を受けさせよと主張している人々は、まことに理に叶っている。」(『退屈な話』新潮文庫版 P.41)
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「荀子」と言えば「性悪説」と来るのが、共通一次/センター試験的常識である。性悪説は陰気でシニカルなものと決め込んでいたところ、あながちそうでもないことを松本三之介先生「日本政治思想史」の講義で教わった。ある人が犯罪をおかしたとしよう。性善説の立場からは、犯人は「善であるところの人の本性にことさら反して悪にくみした」ことになり、それだけ厳しく罪を問われることになる。非常に粗雑に言ってのければ、江戸時代の仕置きは朱子学的性善説に立脚した厳罰主義によって制度設計され、運用された。容赦なく罪を問う精神世界の恐怖政治が、性善説に由来するという構図である。
逆に性悪説の立場から、「人の本性に委ねるなら悪に流れるのもやむを得ず、これを止めたければそれなりの教育を施し、善を学習させねばならない」という建設的な展開がありうることを教わったが、荀子が説くのはまさにその仔細であるらしい。驚きの第二弾。
実際には性悪説にもとづく厳罰主義もあれば、性善説にもとづく教育推進論もあるわけで、そこの関係は一意一概には決まらない。キリスト教の場合、その正統的な人間理解は「原罪」で知られる典型的な性悪説に立つ。悪いものだからこそ恩寵を必要とし、恵みによって救われるとするのだが、そこから陽に向かうか陰に傾くかのバラツキは実に大きい。それこそが、人としてこの世に生まれた者の腕の見せどころ・頑張りどころとも思われる。
「同じように育てた子どもでも、まったく違ったできあがりになる、もって生まれた資質が、やはり大きいのではないか」とアンケートに書いてきた人があった。答えようとした瞬間、ふと思った。そのように感じることのできる回答者や僕自身は、相当に恵まれた立場にある。「あたりまえの育ち」を享受できない人々が昔も今も巷にあふれ、天与の資質を問うことすら困難な状況に置かれている。荀子は正しくもそのことを見ていたのだったか。
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