2024年3月27日(水)
> 1689年(元禄二年)3月27日、松尾芭蕉は多くの人々に見送られながら深川を後にし、『奥の細道』の旅にたつ。弟子の曾良を従えての二人旅だったが、乞食の境涯になることも辞さない、覚悟の旅だった。深川の草庵もあっさり人手に渡し、旅の資金にしている。
『奥の細道』の記述によると、この日、明け方の空はおぼろにかすみ、有明の月の光は淡く、はるか西方に富士山をかすかに見ることができた。「上野、谷中の花の梢」を見るにつけても、今度はいつ見ることができるだろうかと心細い思いが募ったという。作品上はそんな旅立ちだったが、実は、旧暦の3月27日は、今の暦では5月16日にあたる。作品の中では春たけなわの出発の印象があるが、実際は新緑の萌え出る季節の出立だったことになる。
旅立ちの日に添えられた発句は「ゆく春や鳥啼き魚の目は涙」。奥州から北陸を経て岐阜の大垣に至る予定は150日に及んだ。最後に記された発句は「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」とあり、出発の句の「行く春や」と「行く秋ぞ」が見事に対応している。
『奥の細道』は、現実の旅と文学的な虚構の織り交ぜられた稀有の作品となった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.92
松尾 芭蕉
寛永21年(正保元年) - 元禄7年10月12日
(1644年 - 1694年11月28日)
昨年の7月10日(月)、東京は最高気温37℃の猛暑。夕方まで北千住で仕事をし、その後めずらしく銀座で約束があったのが午後7時である。地図上の直線距離は10kmあまり、2時間あれば俺の脚ならお釣りが来るさと、よせば良いのに歩き出したのが頭のいいことである。直線距離を歩けるはずもなく、排気ガスを吸いこみながらの消耗戦、残り10分で日本橋を渡ったあたりからは『走れメロス』状態で、伊東屋の看板が見えているのに近づかない。なぜだ?
で、
この日唯一の収穫が、日光街道沿いに芭蕉の碑を見たことだった。これが証拠、「奥の細道、矢立初めの地」とて、「行く春や」の句がちゃんと紹介されている。
『奥の細道』は確かに通読したのに、ホントに読んだのかと思うぐらい思い出せない。それでも確かに読んだと言えるのは、郡山あたりの懐かしい地名が途中に出てきたからで、そういうことだけは記憶に残るのである。よくせき歌心がないらしい。
「月日は百代の過客にして云々」は李白の、「行く春や」は杜甫の詩句をそれぞれ踏まえていると、そういうトリビアは覚えているのだが…
Ω