書きかけが、ずいぶんたまっている。
このところ、何だかバタバタしていた証拠だな。
2014年2月28日(金)帰宅後
再掲
◯ 資父事君 曰嚴與敬
父に事(つか)えるやり方で主君に事(つか)える。
そこに厳粛さと尊敬の心がある。
・・・そんな時代もあったねと・・・
不思議なことに、何かとこれが引っかかってくるような一日の診療だった。
事えるはともかく、「父」が、ね。
そういえば先週の木曜日に立ち読みした中に、北山修氏の精神分析関係の論考で、「父=男性機能/母=女性機能」という図式に素朴な疑問を呈したものがあったっけ。ごもっともで、その意味では「父」というより、「父親機能」の問題だったかも知れない。う~ん、とも言えないかな。
***
これはとりあえず「父」に関係ない話。
何で読んだのだったか、たぶんアメリカ黒人の民話だと思うが・・・
神様が人をお創りになった時、最初は皆、全身真っ黒の黒人だった。
ある時、神様は池を創り、皮膚の白くなる水をそこに張った。
そして、「白くなりたい者は、水を浴びよ」と呼びかけた。
呼ばれてさっそくやってきた人間たちは、全身に水を浴びて、全身が白くなった。これが白人である。
遅れてやって来た人間たちが見ると、池の水はなくなりかかっていた。急いで池に入ったが、掌と足の裏を水に浸すことしかできなかった。これが黒人である。
それで今でも、黒人の掌と足の裏だけは白いのである。
石丸少年は、これを読んで考えた。それでは我ら黄色人種はどうやってできたのだろうか。
残り少ない水を汲み、お互いに霧吹きで吹きかけあったのではないか。それで全身が白と黒の中間なのではあるまいか。
***
縁起譚の一類型だ。「人間は白くなりたいものだ」と決めつけているところが気に喰わないが、それでもこの種のユーモアは白人よりも黒人の方から出てくるもののように思われる。あるいは『アンクル・リーマス物語』だったかもしれない。たぶんそうだ。
ただし、あの本の「筆者」J.C.ハリスは白人だ。今とは時代が違い、筆者の個人情報から何からあっという間に地球の裏側まで漏れ伝わるわけではない。ハリスが「著者講演会」をすることになり、大人以上に多くの子ども読者たちが詰めかけた。壇上に立った演者を見て、「なんだ、白いじゃないか!」と失望のため息が子ども達から漏れたという。
このハリスはDSM的に言えば social phobia にあたるぐらい、社会的な場面での対人緊張が強かった。それが黒人に対する彼の共感力とどういう関係にあったか、少々興味深い。
***
どうしてこう前振りが長くなるかな。
要するに今日、2月28日午前9時前の山手線の中で、黒人さんの隣りに座ったのだが、どうやら彼は池に遅れてすら行かなかったグループの末裔らしかった。掌も黒いのである。
その大きな手の中に、小さな黄色表紙のパンフレット。
10年ぐらい前までは得意だった、隣の人の読んでる本を横から読んじゃうの。
左目は白内障の手術で眼内レンズを入れたので、目の前30㎝と無限遠の二焦点になり、隣の人の読む本は中間距離でボヤけてしまう。頼みの右目は老眼が進み、線路を挟んで隣のホームの時刻表は見えても、隣の人の読む本はやっぱりボヤける。
気合でどうにか分かったのは、アラビア文字(?)とフランス語が併記されていること、ならば彼は旧フランス領のアフリカ人。
アルジェリア?マダガスカル?訊いてみよう。
「失礼、それってアラビア語?」
「そう、今度あの辺に行くからさ。でもこれは英語じゃなくてフランス語、つまり僕はセネガル人だから」
「Tu parle francais naturellment.」
「Yes, yes.」
お返事はあくまで英語ってのは、思いやり・・・?
話しかけたのが原宿の手前、彼は代々木で降りていったから、ほとんど話ができなかった。
時間があれば話してみたかったことのひとつ。
昔、岩波ホールで見た映画の中に『エミタイ』というタイトルのものがあり、確かセネガル映画だった。第二次大戦期に、フランス軍の米の徴発に抵抗した部族兵が虐殺される事件があり、これを題材にした民族色豊かな秀作だった。
武装では太刀打ちできず、唯々として指示に従うセネガルの男たちが、祖先の声を聞き女たちの歌う歌に鼓舞されて、絶望的な決断に身を投げていく。一期一会の話題としてふさわしいかどうか分からないが、セネガル映画を見る日本人もいると伝えてみたかった。
『エミタイ』については、Wiki にそこそこの情報がある。センベーヌ・ウスマン(1923-2007)という監督の作品(センべーヌが姓、ウスマンが名だそうだ)で、この人はアフリカ映画の父などと呼ばれるらしい。沖仲仕として働きながら独学で教養を積んだという経歴は、エリック・ホッファーを連想させる。
「土俵の鬼」と呼ばれた初代・若乃花は、やはり港湾労働で鍛えた足腰で横綱まで登った。センベーヌやホッファーは、さだめし知性の足腰を鍛えられたに違いない。
***
どこまでも前振りが長いんだよ。
当日はさっさとクリニックに着いたのだ。気になっていることがあって、「消えてなくなれエビスルメ」と呪文を唱えながら出勤したら、めでたく消えてなくなっていた。これでひとつは片づいた、と。
マキさんが晴れ晴れとした表情でやってくる。離婚手続きが片づいた後も、未練がましく訊ねてくる元・夫に、ようやく引導を渡せたのだと。
診療後は貴金属店に寄り、結婚指輪を売る。そのお金で美容院へ行くのだと清々しい。この人は十代の頃には相当モテたに違いない。前にそう言ったら写真を見せてくれ、一目見て心臓が口から飛び出すかと思った。
「生活保護が必要になる前に、何とか仕事を見つけたくて探してるんですけど」
「なかなか、ですか?」
「なかなか、です。水商売ってわけにはいかないし。」
「年齢が、っていう意味ですか?マキさんなら水商売だってOKでしょうけど。」
「いえ、経験が・・・見えないでしょうけど、私やったことないんですよ。」
そうだった。この人は不良少女だったけれど、成人してからはずっと堅い事務仕事を続けてきたのだ。
「年齢は問題ないみたいです。私びっくりしたんですけど、50代女性限定のフーゾクの求人情報があったりするんですよ。」
「求人情報って、ハローワークの?」
「いやだ先生、まさか、ハハハ・・・」
ひとしきり笑ってから、真顔になった。
「でもね、そういう情報もあると知って、少し気が楽になったんです。いざとなったら、そういう道だってあると思ったら。」
「・・・本気ですか?水商売も経験ない人なのに?」
「本気です、矛盾してるんですけど、母や妹の世話になるぐらいだったら、いっそそういう道だってあるんだって。」
いっそ、という言葉のこういう用法があるとは思わなかった。
マキさん、決してそんなことはすまいし、断じてさせないけれど。
***
アスカさんは、あんなに難渋していた過食がピタリと止まった。表情まで生き生きしている。
良いボーイフレンドができたのだ。
メンタルヘルス問題の語られない急所である。信頼できるパートナーさえいれば、薬もカウンセリングもたちどころに不要になる患者が、特に女性の中にどれほど多いことか。
***
ミスズさんにうっかりスポンジの譬えを話して、収拾がつかなくなった。僕としては「ひからびたスポンジが少量の水で潤いをとりもどす」イメージを語ったのだが、ミスズさんの方は「スポンジが際限もなく水を吸って、パンパンに膨れあがる」様を想像してしまったのだ。
比喩・象徴の成立条件ということを思う。僕が浅慮だった。
***
アケミさんがお父さんを非難して止まらなくなった。
母にも自分にも妹にも、いつだって乱暴でワガママ勝手を尽くしてきて、いま母が入院したらお見舞いにもいかない、自分の通院の時には都合構わず私や妹を呼び出すのに、母が入院して寂しいからって、用もないのに仕事場に15分おきに電話かけてきて・・・
「先生、私どうしたらいいんですか?まだ父の面倒をみなくちゃいけませんか?」
困ってしばらく黙っていた。困った末に、
「これが、あなたの恩返しなんでしょう」
そう言ったらアケミさんがぴたりと黙り、やがて涙が頬を伝った。
「産業カウンセラーさんにも、言われたんです。お父さんがいなければ、あなたはいなかったし、あなたがいなければ、あなたの宝物の息子さんたちもいなかった、って。」
アケミさんは涙を拭って微笑んだ。
「父のところへ寄って帰ります。」
立ち上がる時、両脚の義足が小さく軋んだ。
このところ、何だかバタバタしていた証拠だな。
2014年2月28日(金)帰宅後
再掲
◯ 資父事君 曰嚴與敬
父に事(つか)えるやり方で主君に事(つか)える。
そこに厳粛さと尊敬の心がある。
・・・そんな時代もあったねと・・・
不思議なことに、何かとこれが引っかかってくるような一日の診療だった。
事えるはともかく、「父」が、ね。
そういえば先週の木曜日に立ち読みした中に、北山修氏の精神分析関係の論考で、「父=男性機能/母=女性機能」という図式に素朴な疑問を呈したものがあったっけ。ごもっともで、その意味では「父」というより、「父親機能」の問題だったかも知れない。う~ん、とも言えないかな。
***
これはとりあえず「父」に関係ない話。
何で読んだのだったか、たぶんアメリカ黒人の民話だと思うが・・・
神様が人をお創りになった時、最初は皆、全身真っ黒の黒人だった。
ある時、神様は池を創り、皮膚の白くなる水をそこに張った。
そして、「白くなりたい者は、水を浴びよ」と呼びかけた。
呼ばれてさっそくやってきた人間たちは、全身に水を浴びて、全身が白くなった。これが白人である。
遅れてやって来た人間たちが見ると、池の水はなくなりかかっていた。急いで池に入ったが、掌と足の裏を水に浸すことしかできなかった。これが黒人である。
それで今でも、黒人の掌と足の裏だけは白いのである。
石丸少年は、これを読んで考えた。それでは我ら黄色人種はどうやってできたのだろうか。
残り少ない水を汲み、お互いに霧吹きで吹きかけあったのではないか。それで全身が白と黒の中間なのではあるまいか。
***
縁起譚の一類型だ。「人間は白くなりたいものだ」と決めつけているところが気に喰わないが、それでもこの種のユーモアは白人よりも黒人の方から出てくるもののように思われる。あるいは『アンクル・リーマス物語』だったかもしれない。たぶんそうだ。
ただし、あの本の「筆者」J.C.ハリスは白人だ。今とは時代が違い、筆者の個人情報から何からあっという間に地球の裏側まで漏れ伝わるわけではない。ハリスが「著者講演会」をすることになり、大人以上に多くの子ども読者たちが詰めかけた。壇上に立った演者を見て、「なんだ、白いじゃないか!」と失望のため息が子ども達から漏れたという。
このハリスはDSM的に言えば social phobia にあたるぐらい、社会的な場面での対人緊張が強かった。それが黒人に対する彼の共感力とどういう関係にあったか、少々興味深い。
***
どうしてこう前振りが長くなるかな。
要するに今日、2月28日午前9時前の山手線の中で、黒人さんの隣りに座ったのだが、どうやら彼は池に遅れてすら行かなかったグループの末裔らしかった。掌も黒いのである。
その大きな手の中に、小さな黄色表紙のパンフレット。
10年ぐらい前までは得意だった、隣の人の読んでる本を横から読んじゃうの。
左目は白内障の手術で眼内レンズを入れたので、目の前30㎝と無限遠の二焦点になり、隣の人の読む本は中間距離でボヤけてしまう。頼みの右目は老眼が進み、線路を挟んで隣のホームの時刻表は見えても、隣の人の読む本はやっぱりボヤける。
気合でどうにか分かったのは、アラビア文字(?)とフランス語が併記されていること、ならば彼は旧フランス領のアフリカ人。
アルジェリア?マダガスカル?訊いてみよう。
「失礼、それってアラビア語?」
「そう、今度あの辺に行くからさ。でもこれは英語じゃなくてフランス語、つまり僕はセネガル人だから」
「Tu parle francais naturellment.」
「Yes, yes.」
お返事はあくまで英語ってのは、思いやり・・・?
話しかけたのが原宿の手前、彼は代々木で降りていったから、ほとんど話ができなかった。
時間があれば話してみたかったことのひとつ。
昔、岩波ホールで見た映画の中に『エミタイ』というタイトルのものがあり、確かセネガル映画だった。第二次大戦期に、フランス軍の米の徴発に抵抗した部族兵が虐殺される事件があり、これを題材にした民族色豊かな秀作だった。
武装では太刀打ちできず、唯々として指示に従うセネガルの男たちが、祖先の声を聞き女たちの歌う歌に鼓舞されて、絶望的な決断に身を投げていく。一期一会の話題としてふさわしいかどうか分からないが、セネガル映画を見る日本人もいると伝えてみたかった。
『エミタイ』については、Wiki にそこそこの情報がある。センベーヌ・ウスマン(1923-2007)という監督の作品(センべーヌが姓、ウスマンが名だそうだ)で、この人はアフリカ映画の父などと呼ばれるらしい。沖仲仕として働きながら独学で教養を積んだという経歴は、エリック・ホッファーを連想させる。
「土俵の鬼」と呼ばれた初代・若乃花は、やはり港湾労働で鍛えた足腰で横綱まで登った。センベーヌやホッファーは、さだめし知性の足腰を鍛えられたに違いない。
***
どこまでも前振りが長いんだよ。
当日はさっさとクリニックに着いたのだ。気になっていることがあって、「消えてなくなれエビスルメ」と呪文を唱えながら出勤したら、めでたく消えてなくなっていた。これでひとつは片づいた、と。
マキさんが晴れ晴れとした表情でやってくる。離婚手続きが片づいた後も、未練がましく訊ねてくる元・夫に、ようやく引導を渡せたのだと。
診療後は貴金属店に寄り、結婚指輪を売る。そのお金で美容院へ行くのだと清々しい。この人は十代の頃には相当モテたに違いない。前にそう言ったら写真を見せてくれ、一目見て心臓が口から飛び出すかと思った。
「生活保護が必要になる前に、何とか仕事を見つけたくて探してるんですけど」
「なかなか、ですか?」
「なかなか、です。水商売ってわけにはいかないし。」
「年齢が、っていう意味ですか?マキさんなら水商売だってOKでしょうけど。」
「いえ、経験が・・・見えないでしょうけど、私やったことないんですよ。」
そうだった。この人は不良少女だったけれど、成人してからはずっと堅い事務仕事を続けてきたのだ。
「年齢は問題ないみたいです。私びっくりしたんですけど、50代女性限定のフーゾクの求人情報があったりするんですよ。」
「求人情報って、ハローワークの?」
「いやだ先生、まさか、ハハハ・・・」
ひとしきり笑ってから、真顔になった。
「でもね、そういう情報もあると知って、少し気が楽になったんです。いざとなったら、そういう道だってあると思ったら。」
「・・・本気ですか?水商売も経験ない人なのに?」
「本気です、矛盾してるんですけど、母や妹の世話になるぐらいだったら、いっそそういう道だってあるんだって。」
いっそ、という言葉のこういう用法があるとは思わなかった。
マキさん、決してそんなことはすまいし、断じてさせないけれど。
***
アスカさんは、あんなに難渋していた過食がピタリと止まった。表情まで生き生きしている。
良いボーイフレンドができたのだ。
メンタルヘルス問題の語られない急所である。信頼できるパートナーさえいれば、薬もカウンセリングもたちどころに不要になる患者が、特に女性の中にどれほど多いことか。
***
ミスズさんにうっかりスポンジの譬えを話して、収拾がつかなくなった。僕としては「ひからびたスポンジが少量の水で潤いをとりもどす」イメージを語ったのだが、ミスズさんの方は「スポンジが際限もなく水を吸って、パンパンに膨れあがる」様を想像してしまったのだ。
比喩・象徴の成立条件ということを思う。僕が浅慮だった。
***
アケミさんがお父さんを非難して止まらなくなった。
母にも自分にも妹にも、いつだって乱暴でワガママ勝手を尽くしてきて、いま母が入院したらお見舞いにもいかない、自分の通院の時には都合構わず私や妹を呼び出すのに、母が入院して寂しいからって、用もないのに仕事場に15分おきに電話かけてきて・・・
「先生、私どうしたらいいんですか?まだ父の面倒をみなくちゃいけませんか?」
困ってしばらく黙っていた。困った末に、
「これが、あなたの恩返しなんでしょう」
そう言ったらアケミさんがぴたりと黙り、やがて涙が頬を伝った。
「産業カウンセラーさんにも、言われたんです。お父さんがいなければ、あなたはいなかったし、あなたがいなければ、あなたの宝物の息子さんたちもいなかった、って。」
アケミさんは涙を拭って微笑んだ。
「父のところへ寄って帰ります。」
立ち上がる時、両脚の義足が小さく軋んだ。