2020年7月3日(金)
4時過ぎに起き出して、あれこれ片づけたりするうちに2~3時間はすぐに経つ。その時ふと、頭にだか口にだか、いきなり浮かんできた。
よっぴいて ひょうどはなつ
そう、そうだった。「よっぴいて ひょうどはなつ、よっぴいて ひょうどはなつ」と声に出して繰り返すのを、家人が不思議そうに眺めている。那須の与一だ、日本の名文だ。そのくだりを少し前から転記する。
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与一その比(ころ)は未だ二十ばかりの男(をのこ)なり。かちに赤地の錦を以て壬(おほくび)衽(はた袖)彩(いろ)へたる直垂に、萌黄威(もよぎをどし)の鎧着て、足白の太刀を帯(は)き、切斑(きりふ)の矢の、その日のいくさに射て少々残ったりけるを、かしらだかに負ひなし、薄切斑に鷹の羽はぎませたる觘(ぬた)目の鏑をぞ差し添へたる。
滋籐(しげどう)の弓脇に挟み、甲をば脱ぎ高紐に懸け、判官の御前に畏る。
「いかに宗高、あの扇の真中射て、敵に見物せさせよかし」
与一畏って申けるは、
「射おほせ候はむこと不定に候。射損じ候なば、長き御方の御弓箭の瑕にて候ふべし。一定仕らうずる仁に仰せ付けらるべうもや候ふらん」
判官大きに怒つて、
「今度鎌倉を立つて西国へ赴かんずる殿腹は、皆義経が命を背くべからず。それに少しも子細を存ぜん人は、疾う疾う是より帰らるべし」
とぞ宣ひける。与一、重ねて辞せば悪しかりなんとや思ひけん、
「さ候はば外れんをば知り候ふまじ。御諚で候へば、仕つてこそ見候はめ」
とて御前を罷り立ち、黒き馬の太う逞しきに、丸海鞘摺つたる金覆輪の鞍置いてぞ乗つたりける。弓取り直し、手綱掻い繰つて、汀へ向いてぞ歩ませける。御方の兵共、与一が後ろを遥かに見送りて、「一定この若者仕つつべう存じ候ふ」と申しければ、判官世にも頼もしげにぞ見給ひける。
義経も無茶を言うものだが、「確信がもてない」と正直に打ち明けつつ、重ねての主命に潔く汀へ進む与一の姿が悲にして壮。そして、ここからが見せ場である。
矢比(やごろ)少し遠かりければ、海の面一段ばかりうち入れたりけれども、なほ扇のあはひは七段ばかりもあるらんとこそ見えたりけれ。
ころは二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、 磯打つ波も高かりけり。舟は、揺り上げ揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。
沖には平家、舟を一面に並べて見物す。陸には源氏、くつばみを並べてこれを見る。
いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。
与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。これを射損ずるものならば、弓切り折り白害して、人に二度面を向かふべからず。いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、
この矢はづさせたまふな。」
と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、 扇も射よげにぞなつたりける。与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。
小兵といふぢやう、十二束三伏、弓はつよし、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出したるが、白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、陸(くが)には源氏、 えびらをたたいてどよめきけり。
『平家物語』 巻第十一 那須与一(岩波文庫版 四 P. 164-8)
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ああもう、気が遠くなりそうだ。
「よっぴいてひやうど放つ」のあとを、「小兵というぢやう、十二束三伏(じゅうにそくみつぶせ)、弓はつよし、浦ひびくほどながなりして・・・」と声に出して読んでいくと、途中で止めると云うことができない。「どよめきたり」の結句まで、何度でも繰り返して声に出し、しまいに恍惚としてくる。
これはもう、文学であると同時に音楽であり、物語であるとともに歴史叙述であり、要するに人が人に伝え得るすべてである。このような言霊・話芸に日本人は養われて、二千年余を生きてきたのだ。
「日本人は目で読む民であり、耳から入る言葉に反応しない」と賢しらに説く人々がある。だから聖書の朗読も、耳から聞くより手許で読むことが大事なのだと。
不同意。
聖書の翻訳が、翻訳の役割を果たせるほど未だに練れておらず、語られる言葉がそれ以上に空疎なだけのことである。旧約の昔から、神の言葉は読まれるより先に聞かれるものだった。
広まらないのも道理、目標は遙かに遠い。
那須与一 (渡邊美術館蔵) by Wkipedia
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