2024年5月20日(月)
> 1497年7月8日、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガル国王の命を受けて、四隻の艦隊でリスボンを出港した。目的地はインドである。一行は十ヶ月余りをかけてアフリカ南岸から喜望峰を回り、1498年5月20日、インドのカルカッタ沖に投錨した。
旅の目的は、表向きは国王の親書を携えて未知の国々との友好関係を築くというものだったが、実は当時は大変貴重だった香辛料が目的だったと言われている。
しかし、思い通りにならない風向きや水不足に悩まされ、航海は困難をきわめた。補給のために立ち寄った港でも歓迎されず、武装集団に襲われることもあった。やっとたどり着いたカルカッタでは、藩主の一人、カリカットのサムリと面会したが、意思の疎通が難しく、友好的な関係には至らなかった。
さまざまな困難を乗り越えて、翌年ヴァスコ・ダ・ガマはリスボンに帰り着くが、乗組員の三分の一と一隻の船を失っていた。しかし、彼のもたらしたアフリカ、インドの情報と香辛料はポルトガルの人々に熱狂的に迎えられ、武力を誇るポルトガルは来たるべき大航海時代へと突き進んでいくのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.146
Vasco da Gama(1460年頃 - 1524年12月24日/25日)
/ 生誕地シーネスにあるヴァスコ・ダ・ガマ像
1488年にポルトガル人バロトロメウ・ディアスが喜望峰に到達、東に向けてのポルトガルの発展は緒に就きつつあった。
一方、コロンブスが1492年に北米大陸に到達。その成果を受けて発布されたアレクサンデル6世の教皇子午線は、ポルトガルに大いにショックを与えた。スプートニクショックみたいなもので、これに大いに加速されてのヴァスコ・ダ・ガマの快挙である。
もっとも、コロンブスが「大西洋の西の果てから地獄に落ちる」という迷信を押し切って未知の海域に乗り出したのに対し、ヴァスコ・ダ・ガマのそれは上述の通り、国王の信書を携えて異文化地域に交流・交易を求めていったもので、いろいろ対比できそうである。
『ロビンソン・クルーソー』のダニエル・デフォーはスペインに手厳しくポルトガルに好意的だが、これなどは多分にイギリスとの利害・競合が繁栄されているだろう。
それはさておき、インドの先に中国があり極東がある。「バッテラ」や「コンペイトウ」といった言葉や文物を日本人が知る時が、半世紀余り先に迫っている。
図と資料:https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァスコ・ダ・ガマ
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