散日拾遺

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中夏無為の代

2019-06-20 18:30:09 | 日記

2019年6月20日(木)

 ここに、細川右馬守頼之(うまのかみよりゆき)、その比、西国の成敗を司り、敵を滅ぼし、(人を)狎付け、諸事の沙汰の途轍、少し先代の貞永、貞応の旧規に相似たりと云ふとぞ聞こえけえる間、則ち、天下の管領職に居せしめ、(御幼稚の若君を補佐し奉るべしと、群議同じ趣に定まりしかば、右馬守頼之、武蔵守に補任して、執事職を司る。外相(げそう)内徳、げにも人の言ふに違はざりしかば、氏族もこれを重んじ、外様もかれの命を背かずして、中夏無為の代になりて、目出度かりし事どもなり。

太平記 第四十巻 細川右馬守西国より上洛の事 8

 註: 貞永は1232-33、貞応は1222-24、それぞれ北条泰時とその父義時が執権として鎌倉幕府の政務を行った時代で、『太平記』の史観では武家による統治の一理想と目される。
***
 ほぼ半世紀にわたる歴史の波乱万乗を、つぶさに描いてきた大作の終わりは短くあっけない。太平記第40巻はページ数からして他巻の三分の一ほどで、加うるに叙述がそそくさと淡白である。

 客観情勢は淡白どころではない。40巻冒頭で後光厳帝が中殿御会(ちゅうでんぎょかい)を催す。太平の世を象徴する和歌・管絃の盛儀であるが、当今不相応かつ不吉な前例が多いと臣下一同諌めるのを、帝たっての熱意で挙行に至る。これが貞治6(1367)年3月末のこと。

 果たしてその当日に天龍寺が炎上。4月末には関東公方にして将軍義詮が右腕と頼む実弟・足利基氏が28歳の若さで病没する。6月、三井寺と南禅寺の僧が争って死人を出し、8月には内裏での法会の最中に興福寺と延暦寺の衆徒が大立ち回りで多数の死傷者を出すという前代未聞の不祥事。
 そして9月には足利義詮その人が病みつき、12月に他界する。残された嫡子・義満は満9歳の幼少である。
 さらでだに有力大名どもが、組んずほぐれつの私闘を繰り返してきた14世紀、この付置で再び波乱は必至、南朝方またしてもチャンス到来の構図である。

 ところが今度は、なぜか何も起きない。11月、西国随一の実力者、細川頼之が管領に就任し、以後、明徳9(1392)年に至るまで生涯にわたって幼君・義満をよく補佐し、めでたく中夏無為(天下泰平)の代が到来したのだと。なぜ、どうして?

 狐につままれたような結末が、「後は自分で考えよ」と促すようである。5月以来、50日かけて通読してきた『太平記』、これからゆるゆるふりかえってみよう。

Ω


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