2017年7月29日(土)
【白鵬の立ち合いについて】
誰も何も言わないので、誰も何も感じないのかと思っていたが、そういうわけでもないらしい。
左: 立ち合いで頻繁に見せた張り手について、横審の北村正任委員長が「私はあまり良い印象を持っていない」と発言。(7月25日朝刊)
右: 同じ日の読者投書(千葉県 89歳男性)、こちらは全文転記する。
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大横綱よ張り手はもうやめて
香川義煕さん(千葉県 89)
大相撲名古屋場所はおおかたの予想通り、横綱白鵬が39度目の優勝を果たした。通算勝利数の新記録とあわせて、おめでとうと言いたい。
だが、気持ちの奥に何か引っかかるものがある。それはあの「張り手」である。あの張り手が出て来るたびに、横綱の風格に欠けると思ってしまい、白鵬の取組になるとチャンネルを変えるようになった。
確かに、取組相手を考えた毎日の立ち合いや、その研究心と準備には敬服する。張り手も認められた技ではある。しかし、土俵上で張り合いが続く相撲を想像してみよう。これはけんかに等しく、目を背けたくなる。
大横綱と呼ばれる大鵬や北の湖、千代の富士らは、相撲内容も堂々としていた。白鵬の相撲には張り手だけでなく、変化も多い。優勝回数でも勝ち星でも大横綱なのだから、他の力士の挑戦を真っ正面から受ける相撲をしてほしい。
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まったく同感、自分の相撲観が親の年代の男性と同質であることが僕としては嬉しい。万古不易の相撲道に、30年やそこらの年齢の違いがどれほどの影響を及ぼすものでもない。
相撲に対する白鵬の真摯と努力は見事の一語に尽きる。不動の第一人者となってからも、誰より稽古熱心で出稽古も欠かさない。土俵に上がる前に相撲の基本である四股・すり足・鉄砲に相当の時間を割き、愚直な汗をたっぷりかく。「苦しいけれど、これをやらないと勝てないことが体に染み込んでいる」との言葉通り。千秋楽では二場所続けて日馬富士と力相撲、がっぷり四つから息詰まるような引きつけ合いなど、何年ぶりに見ただろうか。熱戦とはいえ、この形になっては日馬富士の勝ち味が薄い。型と力を鍛えあげた白鵬の偉大さに頭が下がる。
これほど強いその人が、先々場所までのカチアゲという名の肘打ちを控えたと思ったら、先場所からはむやみに顔を張る。そうしなければ勝てないような半端な強さではないのに、なぜこんな見苦しいことを続けるのか、師匠はじめ相撲道の大先輩たちがどうして誰も意見しないのか。「白鵬の取組になるとチャンネルを変えるようになった」とは先の投書者、僕の方は「今日はどんな立ち合いをしてくれるか」とそればかり注視していた。心は同じである。今の段階で大鵬・北の湖・千代の富士と彼を並べる気に僕はなれない。相撲は数字では語れない。ひたすら今後を期待するのみである。
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【歌会こわい事件】
これはまた別の話題で、相当大事な問題を含んでいるように思われる。これも全文転記する。(7月25日(月)の朝刊から)
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短歌時評 歌会こわい
大辻隆弘(歌人)
先月、ツイッター上で「リアルな歌会はこわい」という意見が、数多く書き込まれる事態が起こった。「歌会こわい事件」とも呼ぶべき異常事態だった。
この事態は「歌会は真剣な批評の場であるべきだ」という主張がツイッター上に載せられたことから始まった。この意見に対して、すぐに多くの反論が寄せられた。ネット上で短歌を始め、リアルな歌会に参加したことが少ない若者にとって、この意見は、短歌界の権威主義的な体質を感じさせるものだったのだろう。 結果「歌会は批評の場である」という発言をした個人は沈黙せざるを得なくなってしまった。私はこの「事件」の背景 に、短歌界の大きな地殻変動を感じた。
自分の歌を歌会に出し、他人の意見を聞く。それによって自分では気づかなかった自作の長所と短所が見えて来る。歌会は、最も効果的な批評の場であったはずだ。が、今、その常識が通じない。
現在、短歌は、口語で作られるのが普通になった。先生から文語を学ぶ必要はもうない。また、ネットが発達した現在、歌人は結社に入らなくとも自作の短歌を自由に発表することができる。
ツイッターに自分の歌を載せる。それを見た人々が「いいね」を押してくれる。何も、リアルな歌会に出て、他人の批評を受けて傷つく必要はない。「歌会こわい」という声の背景には、短歌をコミュニケーションの手段だと考える人々の増大がある。そこではもはや他者の批評は不要だ。自己満足さえあればいい。
批評は怖い。が、作品をそこにさらすことでしか文学は成立しない。 (歌人)
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僕は歌会について論じる素養をもたず、「短歌の流れが二分されていくのではないか」ぐらいのテキトーな感想しか出ないが、何だか引っかかるのは「いいね」の件である。それから「コミュニケーション」のこと、歌会だってコミュニケーションには違いないが、筆者が言うのはまた別のことなのだ。この件、まだ言葉にできるほど熟していない。
それよりも・・・
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