散日拾遺

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4月3日 博物学者ファーブルへの「感謝の会」開催(1910年)

2024-04-03 20:39:56 | 日記
2024年4月3日(水)

> 1910年4月3日、博物学者ファーブルに対する「感謝の会」が開かれた。出席者は哲学者のベルクソン、数学者のポアンカレ、作家のロスタンやメーテルリンクなど各分野を代表する著名な文化人たちであった。この会は、当時困窮していたファーブルを励まし、その業績を称えるために行われた。
 ジャン・アンリ・ファーブルは貧困のためにほとんど教育を受けられず、苦労して師範免許を取り、教職で妻子を養いながら昆虫の研究を続けていた。しかし、正規の教育を受けていないことから、論文を発表しても学会では冷遇されていた。1879年、生活の糧であった教職を追われ、セリニャンという小さな村で、教科書の執筆などで細々と生計を立てて暮らし始める。ここで、名著『昆虫記』の執筆を開始したのである。
 しかし、出版当初、『昆虫記』はほとんど売れず、はなはだしく生活が困窮し、それを見かねた弟子や同世代の文化人が、「感謝の会」を開いたのだった。
 この会の後、『昆虫記』第十巻の刊行とともにようやくファーブルは世間から注目されるようになり、彼の困窮を知る人々から寄付が送られてくるようになった。しかし、律義なファーブルはそれを受け取らず、すべてを送り返したという。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.99

 Jean-Henri Casimir Fabre
1823年12月21日 - 1915年10月11日


 素晴らしいの一言に尽きる。
 ネット情報を転記しようとしたが、省略できる部分が一行もない。せめて最初の部分だけ。そしてその前に、本邦には何セットかの『昆虫記』の完訳が存在する幸いを確認しておく。
 木づくりの仕事机をこよなく愛用し、机を讃える詩までつくっていること、これほど深く自然と関わりながら、あるいはそのゆえに進化論に与しなかったことなど、その存在そのものが一匹の昆虫のように、ひたむきで精妙で神秘的である。

  

> 1823年12月21日、南フランスのアヴェロン県にある寒村サン・レオンに生まれ、3歳のとき山村にある祖父母の元に預けられて大自然に囲まれて育った。7歳の時祖父母のいるマラヴァルから呼び戻され、父母と弟のフレデリックの4人で暮らせる様になり、小学校に入学した。父の家業が失敗し、14歳で学校を中退するが、師範学校を出て中学の教師になり、物理学、化学の普及書を著した。コルシカ島、アヴィニョンを経てセリニアン(セリニャン・デュ・コンタ)で暮らし、様々な昆虫の観察を行い、それらをまとめて発表したのが『昆虫記』である。
 ファーブルが生きていた当時、代表作である「昆虫記」がノーベル文学賞の候補に上がるなど文学者としては評価されていた。その反面、博物学者としての彼の業績は祖国フランスではあまり理解されなかった。しかしファーブルの開拓した行動学的研究は、その後フランスよりもカール・フォン・フリッシュやコンラート・ローレンツのようなドイツ語圏、あるいはニコ・ティンバーゲンのようなオランダ語圏の研究者に継承されて発展を遂げることになった。また、古くからの昆虫愛好文化をもつ日本でも読まれ、昆虫学の普及に役立った。
 ファーブルは、ギリシア、ローマ、パレスチナ、サラセンの文化に培われたプロヴァンスの地に生涯を送った…


Ω

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