散日拾遺

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「法の支配」について

2022-08-21 09:00:58 | 日記
2022年8月21日(日)
 5週間あまり間があいた。「学びたい言葉」の続き:

「あなたを支持するが、あなたのために法を曲げることはできない」(A)
という言明と表裏一体を為すのが、例の言葉である。
「私の意見はあなたの意見とは違うが、あなたが自分の意見を主張する権利を脅かす者があれば、私はあなたと共に抗議する。」(B)

 個人の意見や主張を超えた一般的な原理原則があり、意見や主張の同等性や類似に従って党派の離合集散が続くとしても、人と人を永続的に結ぶのは変転きわまりないそうした求心力ではなく、原理原則への信頼なのだということ。その消極的表現がAだとすれば積極的表現がBであって、(A)と(B)は同じ幹から出た二本の枝である。
 トランプ氏なり他の誰かなりが(A)を曲げるよう要求しているとすれば、その御仁が(B)を尊重しないことは明らかで、彼の主張に全面的に同調するのでない限り、彼は私の権利を守るために指一本動かしてはくれないだろう。

 「法の支配」は「(個人や党派による)力の支配」と対立するもので、それがどの程度しっかり実現されてきたかはともかく、ずいぶん古い時代から西欧文明の中で隠然たる力を発揮し続けてきた。
 「ローマは世界を三度征服した」という表現があるが、誰が言い出したのだったか。三度とは、武力とローマ法とキリスト教の謂であるが、キリスト教に関しては当初厳しい弾圧をもって臨んだローマの体制が、時とともに逆にキリスト教に呑み込まれた形なので話が違う。後にローマの国教となりあがった教会が西方世界を「征服」したとすれば、大して愉快な話ではない。
 それよりローマ法である。それが西欧諸民族の法のモデルとなり、内容的に影響を与えたということに目が行っていたが、そうした個別事情よりも「法をもって社会を形づくる」という発想そのものがローマ法というシステムの世界史的貢献ではなかったか。
 厄介なのは「法」という言葉が中国文化圏にも存在することで、同じ言葉が存在しており、ニュアンスの違いを無視したり忘れたりしながらこれを使うということが、さまざまな蹉跌の原因となり詐術と欺瞞のつけこむところとなる。

 マンショ「親愛なるリノよ、ヨーロッパでは、貴族が平民によって法廷に召還されるとしても、なにも驚くことはないのだ。なにしろ王自身さえ同じ法律に服しておられるのだから…(中略)…だから王たちに関するあらゆるもめごとや訴訟沙汰さえも、王たちの恣意的な私欲によってではなく、正しい法律として古代から万人に認められた法によって裁かれるのである…(中略)…わが国の殿様は、法文にもよらず、ご機嫌しだい、癇癪まかせに、そしてもちろん、怒り、憎しみ、恐れ、そのほかこれに類するさまざまな心の動揺を基準にして他人の過失の大小を判断し、彼らに自己の憤懣の毒気を吐きかけ、無辜の民に極刑を科することが頻々とあった」
『クアトロ・ラガッツィ』(上)P.554-6

 四人の少年使節らを何よりも驚かせ、そして是非とも故国にもちかえり根づかせたいと熱望させたものの一つが、この「法による支配」という発想だった。「支配者が法によって被治者を支配する」のではない、「法が支配者をも律する」という意味での「法の支配」である。少年らの願い空しく、このことはわが国に根づきはしなかったし、現在も根づいているとはいえない。
 「法治主義」「法治国家」が語られるのは公安用語としてであり、「現行法を逸脱する行為を厳正にとりしまり処罰する」という意味に受けとられる。「権力をもつ者の放恣を法が制する」という意味を読む人は少ないし、実際にそのように機能していない。嘘をついたり書類を改竄したりすれば、下々(しもじも)は法によって処断されるが、国権の中枢にある者は自在に逃れるすべのあることを皆よく知っている。法治主義の空洞化はパロディの域に達している。
 徳川のレジームは、ある面では権力者の恣意を厳しく抑制した。悪政に対する民衆の異議申し立てがあれば、首謀者は容赦なく極刑に処される一方で、悪政の事実があれば支配者も改易などの厳罰を免れなかった。犯罪者の処遇なども驚くほど慎重に行われ、入念な事実調べや法規と前例に照らした熟慮が励行された証拠が文書で残っている。
 しかし、そうしたシステムが全体として「お上から下された御法度」として天下ったものであり、お上そのものを制約する天の道理とされてはいなかったところに決定的な欠けがある。そのことを幕藩体制の初めにあたって宣言し、その後も刷り込み続ける意味をもったのが、ほかならぬキリシタン弾圧だった。お上の怒りに触れるとき、どれほど恐ろしいことが起きるかを徹底的に知らしめ、恐怖によって相互監視と内部告発を励行し、寺請制度という形で仏教全体を政治的支配の末端に組み入れる ~ 見事というほかない一連の虚勢操作によって、宗教的寛容と政治的異議申し立ては日本の日常風景の中から跡形もなく一掃された。
 ヨーロッパ社会で「宗教と政治を食卓の話題としない」のは、それが深刻な紛糾の種になりかねないからである。日本でもそうしたことは食卓の話題になりはしないが、それはそれらがお上の勘気に触れかねない剣呑な話題であり、善良な被治者の保身に益しないからである。
 見かけは似ていても意味はまったく違う。

Ω

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