2014年2月8日(土)
ソチ冬季五輪開幕。
この地名を以前から知っていた人は偉いね。僕はもちろん知らなかった。
黒海の北東岸、300㎞ほど西にはクリミア(クリム)半島がある。クリミア戦争の舞台であり、セヴァストポリ要塞の攻防戦は酸鼻を極めた。下っては、半島南端のヤルタで第二次世界大戦の戦後処理に関わる首脳会談が行われるなど、近現代史のきな臭さが刻印されている。
「東西文化の十字路」とは、黒海対岸のイスタンブールに冠せられる美称だが、広く黒海沿岸全体がそのような意味をもつだろう。この土地をロシアが領有する現状自体、長く困難な歴史の産物である。グルジア人の思いはとりわけ複雑と思われるが、スターリンがグルジア人であることを考えたりすると、もう訳が分からない。
・・・などと書きながらふとインターネットを見たら、開会式で各国選手団の入場にあわせて、その国の地図を地面に映し出す際、グルジアとの係争地でロシアが一方的に独立を承認している2地域(アブハジア自治共和国、南オセチア)は白い雲様の映像で覆われていたそうだ。
グルジアでは「ロシアはグルジアの面目を潰した」といった声が早速あがっているらしいが、他人事と思うなかれ、北海道東部のいわゆる北方領土も同じくボカシが入ったんだそうだ。ほんと?
ちなみに僕は領土拡張主義者ではないけれど、ポツダム宣言の趣旨からすれば北方四島だけでなく千島列島全体が日本の固有領土のはずではないかと思う。今さらそれを主張しようというのではない、ポツダム宣言を素直に読むなら、そうなるはずだという意味でね。
***
戦争が異文化間コミュニケーションを劇的に促進することは、悲しくも峻厳な歴史の現実である。
いつも真っ先に思い出すのは中国で発明された「紙」の製法が、西方世界へ広まった経緯だ。西暦751年、中央アジアのタラス河畔で唐とアッバース朝の軍隊が戦った。戦闘はアッバース朝の勝利に帰し、唐人の捕虜の仲に紙作り職人のいたことが歴史を動かした。イスラム世界で改良を加えられた製紙法は12世紀にはヨーロッパに伝わる。いわゆる12世紀ルネッサンスとの関連は分からないが、下って1450年頃にグーテンベルクが活版印刷法を考案したとき、紙の潜在的な可能性が爆発的に開花したことは疑いない。
軽い話題に逃げよう。
クロワッサンの由来である。あの三日月形はトルコの新月旗(「いわゆる」新月旗、新月は三日月と違うのに)を象ったものだという説があるよね。
Yahoo 知恵袋の回答者が紹介する逸話は、以下のようだ。
「昔、オーストリアがトルコと戦っていた頃、トルコ軍が攻めてきてウィーンの街は包囲されました。ある早朝、奇襲作戦に出たトルコ軍の兆候に、仕込みをしていたパン職人が気が付き、いち早く軍隊に知らせたことからトルコ軍の作戦は失敗し、それがきっかけでトルコ軍は引き上げました。
その勝利を祝い、トルコの国旗にある三日月に似せたパンを作り、有名になったのが起源、といわれています。
その後、マリーアントワネットがフランスに嫁いだ際、連れて行ったパン職人がこれをフランスに伝え、クロワッサンとしてフランス国内のみならず世界にひろまった、とか。」
オスマン・トルコによるウィーン包囲は二次にわたるが、経過からも時期からしてもこの件は、第一次包囲(1529)ではなく第二次包囲(1683)に違いない。
後世から見るとこの包囲戦はトルコ側の大失敗で、オスマン帝国凋落のきっかけともなるのだが、当時のウィーン市民やヨーロッパ列国にとっては心胆の凍えるようなできごとだった。
それを思うとき、「恐るべき強敵のシンボルをパンに象って食べる」って、なかなか意味深長ではないか?敵を噛み砕き呑み込むわけだから、まずは恐怖を打ち消す象徴的行為と解釈できる。しかしそれを日々くりかえし食べては消化吸収することによって、同一化が生じる側面も無視できない。
すなわち、攻撃者との同一化(あるいは同一視) ~ identification with the aggressor ~ この防衛機制は相当強力なのだ。
そういえばどこかの部族の食人の風習について、「食べることによって敵の偉大な力をわがものにする」という意味がこめられていると聞いたな。「旗」は強烈なシンボルなんだから、敵の旗の型どりを食べることは、敵そのものを食い尽くすことにかなり近い。象徴的な「食敵」である。
トルコといえば、モーツァルトに『トルコ風』を副題にもつ作品があり、映画『アマデウス』にも「トルコ風」がウィーンに流行する場面がある(どの程度ほんとうのトルコ風を反映しているかどうかはともかく)。トルコの軍楽隊の音楽は独特だが、僕の知る限りでそれが西洋音楽の旋律なり形式なりに本格的な影響を及ぼしたとは思えない。しかし少なくとも、ある一連のイメージを喚起する力を「トルコ」がもったことは間違いない。それが面白い。
恐るべき軍事力をもち、宗教を異にする ~ 単に異にするばかりでなく真っ向から敵対する ~ 「不倶戴天の」敵、全盛期を過ぎたとはいえ、18世紀後半においてトルコの脅威は決して過去のものではなかった。その敵の存在が文化的な刺激となることが、何とも不思議で触発的である。
***
戦争以上に効率の良いコミュニケーション手段が、たぶんひとつだけある。
性的交渉だ。こんなことばっかり書いてると、そのうち破門されちゃいそうでおっかないけど。
論より強力な証拠がここにある。
AIDS出現までは歴史上最も危険な性病であった梅毒。この病気は元来、中南米のみに存在した病気だった。それが他の地域へ進出を開始したのは西暦1492年、コロンブス御一行さまのお土産とするのが通説で、彼の人々の旺盛な好奇心と生命力を証明するものでもある。
それはさておき、この病気は ~ 病原体は、というべきか ~ その後めざましいスピードで東進し、遅くとも1512年には日本に到達した。遅くともというのは、明らかに梅毒と思われる病気「唐瘡」がこの年に京都で大流行したことが、文献で確認されるからだ(『再昌草』三条西実隆、『月海録』竹田秀慶)。その間わずか20年、マゼラン一行の世界周航(1519~22年)すら達成されていない当時の交通事情を考えるなら、まさしく驚異的なスピードである。
ついでに言うと、梅毒は伝来の途中で鉄砲を追い越している。ヨーロッパにおける鉄砲の発明年代を正確に決めるのは難しく、また本来の起源は中国であってヨーロッパ人がこれを改良したに過ぎないというお決りの異論もあるが、何しろ梅毒よりもはっきり早く14~5世紀のある時期にヨーロッパを出て、1542-3年の「マラッカ銃、種子島渡来」に至るわけである。梅毒はあっという間にこれを抜き去り、30年も早く日本に到達した。
鉄砲の伝播の速さも相当なもので、軍事技術の浸透性の大きさを物語る例証とされるが、それを遥かに凌駕する梅毒の伝播速度には、もはや言葉がない。
性交渉のもう一つの偉大な特性は、そこで遺伝子が入り交じり、ハイブリッドとしての子孫が生み出される点だ。混血児の運命はしばしば困難なものになるが、急性期を乗り越えることができれば新たな文化が生み出される可能性がある。現に中南米の人々は、そのようにして別天地を創り出した。
産めよ、増えよ、地に満ちよ!
ソチ冬季五輪開幕。
この地名を以前から知っていた人は偉いね。僕はもちろん知らなかった。
黒海の北東岸、300㎞ほど西にはクリミア(クリム)半島がある。クリミア戦争の舞台であり、セヴァストポリ要塞の攻防戦は酸鼻を極めた。下っては、半島南端のヤルタで第二次世界大戦の戦後処理に関わる首脳会談が行われるなど、近現代史のきな臭さが刻印されている。
「東西文化の十字路」とは、黒海対岸のイスタンブールに冠せられる美称だが、広く黒海沿岸全体がそのような意味をもつだろう。この土地をロシアが領有する現状自体、長く困難な歴史の産物である。グルジア人の思いはとりわけ複雑と思われるが、スターリンがグルジア人であることを考えたりすると、もう訳が分からない。
・・・などと書きながらふとインターネットを見たら、開会式で各国選手団の入場にあわせて、その国の地図を地面に映し出す際、グルジアとの係争地でロシアが一方的に独立を承認している2地域(アブハジア自治共和国、南オセチア)は白い雲様の映像で覆われていたそうだ。
グルジアでは「ロシアはグルジアの面目を潰した」といった声が早速あがっているらしいが、他人事と思うなかれ、北海道東部のいわゆる北方領土も同じくボカシが入ったんだそうだ。ほんと?
ちなみに僕は領土拡張主義者ではないけれど、ポツダム宣言の趣旨からすれば北方四島だけでなく千島列島全体が日本の固有領土のはずではないかと思う。今さらそれを主張しようというのではない、ポツダム宣言を素直に読むなら、そうなるはずだという意味でね。
***
戦争が異文化間コミュニケーションを劇的に促進することは、悲しくも峻厳な歴史の現実である。
いつも真っ先に思い出すのは中国で発明された「紙」の製法が、西方世界へ広まった経緯だ。西暦751年、中央アジアのタラス河畔で唐とアッバース朝の軍隊が戦った。戦闘はアッバース朝の勝利に帰し、唐人の捕虜の仲に紙作り職人のいたことが歴史を動かした。イスラム世界で改良を加えられた製紙法は12世紀にはヨーロッパに伝わる。いわゆる12世紀ルネッサンスとの関連は分からないが、下って1450年頃にグーテンベルクが活版印刷法を考案したとき、紙の潜在的な可能性が爆発的に開花したことは疑いない。
軽い話題に逃げよう。
クロワッサンの由来である。あの三日月形はトルコの新月旗(「いわゆる」新月旗、新月は三日月と違うのに)を象ったものだという説があるよね。
Yahoo 知恵袋の回答者が紹介する逸話は、以下のようだ。
「昔、オーストリアがトルコと戦っていた頃、トルコ軍が攻めてきてウィーンの街は包囲されました。ある早朝、奇襲作戦に出たトルコ軍の兆候に、仕込みをしていたパン職人が気が付き、いち早く軍隊に知らせたことからトルコ軍の作戦は失敗し、それがきっかけでトルコ軍は引き上げました。
その勝利を祝い、トルコの国旗にある三日月に似せたパンを作り、有名になったのが起源、といわれています。
その後、マリーアントワネットがフランスに嫁いだ際、連れて行ったパン職人がこれをフランスに伝え、クロワッサンとしてフランス国内のみならず世界にひろまった、とか。」
オスマン・トルコによるウィーン包囲は二次にわたるが、経過からも時期からしてもこの件は、第一次包囲(1529)ではなく第二次包囲(1683)に違いない。
後世から見るとこの包囲戦はトルコ側の大失敗で、オスマン帝国凋落のきっかけともなるのだが、当時のウィーン市民やヨーロッパ列国にとっては心胆の凍えるようなできごとだった。
それを思うとき、「恐るべき強敵のシンボルをパンに象って食べる」って、なかなか意味深長ではないか?敵を噛み砕き呑み込むわけだから、まずは恐怖を打ち消す象徴的行為と解釈できる。しかしそれを日々くりかえし食べては消化吸収することによって、同一化が生じる側面も無視できない。
すなわち、攻撃者との同一化(あるいは同一視) ~ identification with the aggressor ~ この防衛機制は相当強力なのだ。
そういえばどこかの部族の食人の風習について、「食べることによって敵の偉大な力をわがものにする」という意味がこめられていると聞いたな。「旗」は強烈なシンボルなんだから、敵の旗の型どりを食べることは、敵そのものを食い尽くすことにかなり近い。象徴的な「食敵」である。
トルコといえば、モーツァルトに『トルコ風』を副題にもつ作品があり、映画『アマデウス』にも「トルコ風」がウィーンに流行する場面がある(どの程度ほんとうのトルコ風を反映しているかどうかはともかく)。トルコの軍楽隊の音楽は独特だが、僕の知る限りでそれが西洋音楽の旋律なり形式なりに本格的な影響を及ぼしたとは思えない。しかし少なくとも、ある一連のイメージを喚起する力を「トルコ」がもったことは間違いない。それが面白い。
恐るべき軍事力をもち、宗教を異にする ~ 単に異にするばかりでなく真っ向から敵対する ~ 「不倶戴天の」敵、全盛期を過ぎたとはいえ、18世紀後半においてトルコの脅威は決して過去のものではなかった。その敵の存在が文化的な刺激となることが、何とも不思議で触発的である。
***
戦争以上に効率の良いコミュニケーション手段が、たぶんひとつだけある。
性的交渉だ。こんなことばっかり書いてると、そのうち破門されちゃいそうでおっかないけど。
論より強力な証拠がここにある。
AIDS出現までは歴史上最も危険な性病であった梅毒。この病気は元来、中南米のみに存在した病気だった。それが他の地域へ進出を開始したのは西暦1492年、コロンブス御一行さまのお土産とするのが通説で、彼の人々の旺盛な好奇心と生命力を証明するものでもある。
それはさておき、この病気は ~ 病原体は、というべきか ~ その後めざましいスピードで東進し、遅くとも1512年には日本に到達した。遅くともというのは、明らかに梅毒と思われる病気「唐瘡」がこの年に京都で大流行したことが、文献で確認されるからだ(『再昌草』三条西実隆、『月海録』竹田秀慶)。その間わずか20年、マゼラン一行の世界周航(1519~22年)すら達成されていない当時の交通事情を考えるなら、まさしく驚異的なスピードである。
ついでに言うと、梅毒は伝来の途中で鉄砲を追い越している。ヨーロッパにおける鉄砲の発明年代を正確に決めるのは難しく、また本来の起源は中国であってヨーロッパ人がこれを改良したに過ぎないというお決りの異論もあるが、何しろ梅毒よりもはっきり早く14~5世紀のある時期にヨーロッパを出て、1542-3年の「マラッカ銃、種子島渡来」に至るわけである。梅毒はあっという間にこれを抜き去り、30年も早く日本に到達した。
鉄砲の伝播の速さも相当なもので、軍事技術の浸透性の大きさを物語る例証とされるが、それを遥かに凌駕する梅毒の伝播速度には、もはや言葉がない。
性交渉のもう一つの偉大な特性は、そこで遺伝子が入り交じり、ハイブリッドとしての子孫が生み出される点だ。混血児の運命はしばしば困難なものになるが、急性期を乗り越えることができれば新たな文化が生み出される可能性がある。現に中南米の人々は、そのようにして別天地を創り出した。
産めよ、増えよ、地に満ちよ!