2014年2月5日(水)
「あまりにも絶好」
この表現はいかが?
「それってヘン!」と笑ってくれれば嬉しいところ。「絶好」は「比較を絶する好さ」とでもいうような究極表現だから、「少し絶好」とか「なかなか絶好」とか、程度を修飾する言葉とは折り合わない。むろん「すごく絶好」も「あまりにも絶好」もペケ、「絶好」は「絶好」だ。
しかしこれも、Nさんほどの才媛が書いたとなると、案外ワザとかなという気もしたりして。
新聞の囲碁観戦記、これは誰でも書けるものではない。事実の正確な把握、ドラマ性に対する感受性、気を逸らさない文章表現力、それらに加え、記者自身がある程度(というか相当に)碁が強くなければならない。プロの解説を聞いて、それを理解できる水準というと、アマも高段の実力だよね。
朝日新聞には現在3人の記者が寄稿しているが、それぞれ個性があってたぶんブラインドでもあてられる。紅一点のNさんはお利口で有名な女子大の囲碁部OGだが、お目にかかるとちょっとイメージが違って、何というか存在感があるのだ。何でお目にかかったかというと、ときどき石倉教室を手伝いに来られるんだな。
講義の聞き手を務めることもあるが、たぶん打ち合わせよりも過激にツッコみすぎて、碁の授業だか掛け合い漫才だか分からなくなる時がある。対局の時間には、見て回りながら「ここはこう打つんでしょ」みたいな指導をポンポン入れるので、苦手な人もありそうだが僕は大いに楽しみで。
どんな碁を打つのかな、盤を囲んでもポンポン打ち込んでくるのかな。ポンポン書いて時たまポカをやる、愛すべき才媛である。
***
ハーンの『日本の怪談』を検索したときに、また別の『日本の怪談』コレクションが見つかったので読んでみた。『四谷怪談』『牡丹灯籠』『皿屋敷』『乳房榎』のコレクションである。面白いという言葉があたるかどうか、感想は保留するとして、副産物がとりあえず嬉しかったので。
日本の碁の中心組織である日本棋院は、市ヶ谷駅の近くにある。住所が千代田区五番町 ~ 「碁盤町」と引っ掛かけのきく、良い地名を選んだものだと感心するが、その五番町の縁起が『皿屋敷』の中にある。
「徳川家康が天下を平定したのち、柳営(りゅうえい、将軍の陣営・幕府)勤仕の侍たちに江戸城近傍の屋敷が与えられた。
武役の番士を諸所散り散りに配置し、非常の事態が起きたときのために、書院番・小姓組・大番組・小十人組・徒(かち)組という役を置いた。これらの組の者は行列の際に供奉し、将軍のそばを決して離れぬ役柄で、この五役の面々を五番衆といった。
(中略)
五番士勤功の者たちを一つの曲輪に住ませたところから、その地を五番町と称した。また、縦横に小路が走り、四角形に分けられた様子が、まるで碁盤の目のようであったため盤町とも呼ばれたという。」
道理で。
でも、今は千代田区に一番町から四番町までもあるよね。元祖の五番町からカウントダウンしたのかな。
Wiki をカンニングしたら下記のようにあった。大同小異、このほうがわかりやすいかな。五番町の優先性は、これだとはっきりしないけれど。
「江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれた。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も一番町から六番町に引き継がれている。」
***
この本の副産物として、他にもいくつかの歴史トリビアに出あった。
たとえば天寿院、将軍秀忠の娘で、豊臣秀頼に嫁がされたあの千姫である。坂崎出羽守が落ちる寸前の大坂城から救い出し、家康は約束通り千姫を妻に与えようとしたが、坂崎があまりに醜男であったため姫が頑なに拒んだという。
無念の坂崎に代え、重臣本多忠勝の嫡孫に再嫁したが、夫が早世したため出家して天寿院となった。この天寿院が美貌ながら身持ちが悪く、屋敷を気ままな猟色の舞台に変じた。これが皿屋敷であるとされる。
ここを舞台に凄惨な怪談が展開するのだが、脚注のような形で麹町平河町の山田浅右衛門に言及のあるのが嬉しい。山田浅右衛門は代々、死罪の者の首切り役を務めた。ある代の浅右衛門(朝右衛門)を主人公とした劇画『首斬り朝』は、小池一夫・小島剛夕の名コンビによる奇なる傑作である。
史実は知らず、作中の天寿院は飽くことを知らぬ淫蕩に加え、嫉妬に駆られて侍女とその恋人を惨殺する夜叉の如き女性である。そして作者は、次のような解釈を
もって締めくくりとしている。
「天寿院は6歳の時に大阪へ輿入れし、秀頼との仲も睦まじかった。落城のみぎり、逃れ出てから三度嫁ぎ、夫ではない男と幾人となく契ったのは、過去の宿業とはいうものの、ひとつには大坂方の戦死者の怨念がその身に報いたのであろう。『悪鬼がその身に入る』とはこのようなことを言うのであろう。」
***
ついでにもうひとつだけ、「なさぬなか」ってどんな仲だ?
「生さぬ仲」と書き、血のつながりのない親子の間柄を言うのだ。この言葉を、何となく「世に入れられない男女の仲」ぐらいに思い込んでいる手合が多い・・・なんて偉そうに言えない、僕も40年ぐらい前はてっきりそうだと思ってたんだから。
だけど、言葉の専門家がこれをやっちゃあマズイですよ。
「おきせとなさぬ仲になった磯貝は、師匠の重信を邪魔に感じるようになっていた。<師匠の重信は絵を描き終えたら帰ってきてしまう。いっそ重信を亡き者にして、おきせと天下晴れて楽しもう>」(『乳房榎』)
ここは笑うところじゃないのでした。
「あまりにも絶好」
この表現はいかが?
「それってヘン!」と笑ってくれれば嬉しいところ。「絶好」は「比較を絶する好さ」とでもいうような究極表現だから、「少し絶好」とか「なかなか絶好」とか、程度を修飾する言葉とは折り合わない。むろん「すごく絶好」も「あまりにも絶好」もペケ、「絶好」は「絶好」だ。
しかしこれも、Nさんほどの才媛が書いたとなると、案外ワザとかなという気もしたりして。
新聞の囲碁観戦記、これは誰でも書けるものではない。事実の正確な把握、ドラマ性に対する感受性、気を逸らさない文章表現力、それらに加え、記者自身がある程度(というか相当に)碁が強くなければならない。プロの解説を聞いて、それを理解できる水準というと、アマも高段の実力だよね。
朝日新聞には現在3人の記者が寄稿しているが、それぞれ個性があってたぶんブラインドでもあてられる。紅一点のNさんはお利口で有名な女子大の囲碁部OGだが、お目にかかるとちょっとイメージが違って、何というか存在感があるのだ。何でお目にかかったかというと、ときどき石倉教室を手伝いに来られるんだな。
講義の聞き手を務めることもあるが、たぶん打ち合わせよりも過激にツッコみすぎて、碁の授業だか掛け合い漫才だか分からなくなる時がある。対局の時間には、見て回りながら「ここはこう打つんでしょ」みたいな指導をポンポン入れるので、苦手な人もありそうだが僕は大いに楽しみで。
どんな碁を打つのかな、盤を囲んでもポンポン打ち込んでくるのかな。ポンポン書いて時たまポカをやる、愛すべき才媛である。
***
ハーンの『日本の怪談』を検索したときに、また別の『日本の怪談』コレクションが見つかったので読んでみた。『四谷怪談』『牡丹灯籠』『皿屋敷』『乳房榎』のコレクションである。面白いという言葉があたるかどうか、感想は保留するとして、副産物がとりあえず嬉しかったので。
日本の碁の中心組織である日本棋院は、市ヶ谷駅の近くにある。住所が千代田区五番町 ~ 「碁盤町」と引っ掛かけのきく、良い地名を選んだものだと感心するが、その五番町の縁起が『皿屋敷』の中にある。
「徳川家康が天下を平定したのち、柳営(りゅうえい、将軍の陣営・幕府)勤仕の侍たちに江戸城近傍の屋敷が与えられた。
武役の番士を諸所散り散りに配置し、非常の事態が起きたときのために、書院番・小姓組・大番組・小十人組・徒(かち)組という役を置いた。これらの組の者は行列の際に供奉し、将軍のそばを決して離れぬ役柄で、この五役の面々を五番衆といった。
(中略)
五番士勤功の者たちを一つの曲輪に住ませたところから、その地を五番町と称した。また、縦横に小路が走り、四角形に分けられた様子が、まるで碁盤の目のようであったため盤町とも呼ばれたという。」
道理で。
でも、今は千代田区に一番町から四番町までもあるよね。元祖の五番町からカウントダウンしたのかな。
Wiki をカンニングしたら下記のようにあった。大同小異、このほうがわかりやすいかな。五番町の優先性は、これだとはっきりしないけれど。
「江戸時代の旗本のうち、将軍を直接警護するものを大番組と呼び、大番組の住所があったことから番町と呼ばれた。大番組は設立当初、一番組から六番組まであり、これが現在も一番町から六番町に引き継がれている。」
***
この本の副産物として、他にもいくつかの歴史トリビアに出あった。
たとえば天寿院、将軍秀忠の娘で、豊臣秀頼に嫁がされたあの千姫である。坂崎出羽守が落ちる寸前の大坂城から救い出し、家康は約束通り千姫を妻に与えようとしたが、坂崎があまりに醜男であったため姫が頑なに拒んだという。
無念の坂崎に代え、重臣本多忠勝の嫡孫に再嫁したが、夫が早世したため出家して天寿院となった。この天寿院が美貌ながら身持ちが悪く、屋敷を気ままな猟色の舞台に変じた。これが皿屋敷であるとされる。
ここを舞台に凄惨な怪談が展開するのだが、脚注のような形で麹町平河町の山田浅右衛門に言及のあるのが嬉しい。山田浅右衛門は代々、死罪の者の首切り役を務めた。ある代の浅右衛門(朝右衛門)を主人公とした劇画『首斬り朝』は、小池一夫・小島剛夕の名コンビによる奇なる傑作である。
史実は知らず、作中の天寿院は飽くことを知らぬ淫蕩に加え、嫉妬に駆られて侍女とその恋人を惨殺する夜叉の如き女性である。そして作者は、次のような解釈を
もって締めくくりとしている。
「天寿院は6歳の時に大阪へ輿入れし、秀頼との仲も睦まじかった。落城のみぎり、逃れ出てから三度嫁ぎ、夫ではない男と幾人となく契ったのは、過去の宿業とはいうものの、ひとつには大坂方の戦死者の怨念がその身に報いたのであろう。『悪鬼がその身に入る』とはこのようなことを言うのであろう。」
***
ついでにもうひとつだけ、「なさぬなか」ってどんな仲だ?
「生さぬ仲」と書き、血のつながりのない親子の間柄を言うのだ。この言葉を、何となく「世に入れられない男女の仲」ぐらいに思い込んでいる手合が多い・・・なんて偉そうに言えない、僕も40年ぐらい前はてっきりそうだと思ってたんだから。
だけど、言葉の専門家がこれをやっちゃあマズイですよ。
「おきせとなさぬ仲になった磯貝は、師匠の重信を邪魔に感じるようになっていた。<師匠の重信は絵を描き終えたら帰ってきてしまう。いっそ重信を亡き者にして、おきせと天下晴れて楽しもう>」(『乳房榎』)
ここは笑うところじゃないのでした。