散日拾遺

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上毛かるたと西条かるた(後)

2018-06-16 09:41:01 | 日記

2018年6月15日(金)

 実は知人の中に群馬県の人があり、面接授業で久々に前橋を訪れると知って上毛かるたを一式プレゼントしてくれた。それでいまこの時に話題にしたのである。既述の通り堂々たる内容で、群馬の歴史とか上州人の意気地とかいったことを思う。ただ、恐らくはどこの県でも似たようなものを作れるのではないだろうか。日本という国のそれぞれの地域には、それだけの豊かさが十分ある。あり、これに関しては徳川泰平の300年がそれなりの意味をもったのではないかと思う。

 で、帰省の際に上毛かるたを父に見せたのが4月29日。父もまた、へえ、そんなものがあったんかいなどと珍しがっていたが、逆に面白いものをもちだしてきた。『西条の歴史かるた』というのである。父は全国規模の転勤族だったが、祖父もまたローカルな転勤を余儀なくされた人で、父は高知県内で生まれ西条の小学校に通った。松山から直線距離で40km東の西条市に今でも知人友人がぽつぽつあり、その一人が送ってくれたのだという。

 それこそ県外の人にはピンともプンとも来ないだろうが、愛媛県人には首肯されるところがある。西条は人口11万人の小都市ながら、石鎚山への登山口にあたり、勇壮なダンジリなど小ネタに事欠かない個性的な土地柄である。そもそも幕藩体制下では西条藩という一藩を為していた。県民性に先立って藩民性というものを考える必要があり、その方がよほど自然や経済の実情に合致しているとは以前述べたところ。とりわけ一藩一県の徳島や二藩一県の高知と違って、中小八藩を糾合してできた愛媛の場合、旧藩の文化に遡ることなく県を論じても意味が薄い。八藩とは、西条藩、小松藩、今治藩、伊予松山藩、新谷藩、大洲藩、伊予吉田藩、宇和島藩である。(当ブログ 2013-08-08「県?藩?もっと古いもの?」)

 『西条の歴史かるた』などという発想が生まれるのも「愛媛」に解消されない西条固有の文化事情が存在し、かつそれを意識する人々あればこそであろう。

『西条の歴史かるた』 西条史談会刊(平成12年)
箱に描かれているのは「天正13年 野々市ヶ原」

 44枚のカルタを眺めてみると、まずはこの地域の歴史の古さ長さがわかる。「八堂山の弥生期高地遺跡(や)」は別格として「櫟津(いちいづ)・飯積神社(つ)」と「石岡(いわおか)神社(ゆ)」は仲哀天皇ないし神功皇后に由来する。弘法大師伝説(と)は全国どこにでもあるとして、真導廃寺(な)・伊曾乃宮(も)・前神時(へ)などは奈良・平安期に遡るものだ。

 この古さは何の不思議もないことで、瀬戸内海は大陸に直結する北九州と畿内とを結ぶ古代の大動脈、温暖な気候も相まって沿岸はきわめて早くから拓けていた。とりわけ西条は芸予諸島の近畿側最終拠点にあたり、額田王の歌った熟田津(にきたつ)の所在についても、堀江・和気・三津浜といった松山北辺と推定する通説に対して、西条に違いないと主張する有力な(?)異論があったりする。

 中世には、わが北条から出て道後を本拠とした河野氏が伊予一円を支配したが、鎌倉以前からの名家も戦国期を通して徐々に衰退し、1585(天正13)年には長曾我部氏の軍門に降った。しかし、同じ年の夏には秀吉が長曾我部攻めの布令を発する。実働部隊は小早川隆景率いる3万の毛利勢、この時、現在の新居浜・西条あたりを治めていたのは金子氏で、河野氏を介して毛利に降る選択肢もあったというが、現実には長曾我部と結んで徹底抗戦の道を選んだ。しかし、秀吉派遣の大軍を相手にたかだか2千の兵では非勢覆い難く、奮戦むなしく金子城(新居浜)が落とされる。追い詰められた金子勢は高尾城(西条)に自ら火をかけ、野々市の原で最後の決戦を挑み激戦の末全滅した(上掲写真参照)。一連の戦いを「天正(の)陣」と呼ぶ。

 この天正陣にまつわる札がかるたに多い。「千人塚天正の陣の古戦場(せ)」をはじめ「尊清が書き残した澄水記(そ)」「天正の御霊を送る揚げ花火(て)」など。「植え継いで梛の木残る徳常寺(う)」は梛(なぎ)の木に言よせて、天正陣ではなばなしく討ち死にした徳常寺の怪力僧・任瑞(にんずい)を偲んでいる。高峠城はもともと河野氏の城だったが天正陣で焼失(た)、吉祥寺もことごとく焼失したものの本尊の毘沙天が救い出されて現在地に移ったという(ひ)。西条の長い歴史の中で、今でもクライマックスは天正陣なのかもしれない。

***

 江戸時代に入って立てられた西条藩は、当初は一柳(ひとつやなぎ)家が治めた。一柳氏は本姓が越智で、そこから窺われる通り河野氏の庶流というが、これはどうも怪しいらしい。三代目の直興(なおおき)の時に失政があり、これに抗した人々の義が2枚のかるたに記されている。

 当時、年貢は米と決まっていたが、山間地区は米がとれず銀納を願い出た。しかし許されず、遂に中奥山村の庄屋・工藤治平が五か村の庄屋と語らい血判連署の嘆願書を差し出した。これが不届きとされ、庄屋らは十分な取り調べも経ずに処刑された。「(ぬ)ぬかずいて義民を偲ぶ治平堂」とはその故事を指す。

 義の人は百姓だけではない。「(ち)忠烈の四士が眠る常福寺」、四士とは、当主直興の行状を諌めて死んだ真鍋次郎兵衛、岩崎五兵衛、平野文蔵、太田玄兵衛の四人のこととある。上記の銀納事件(1664年)などを憂えての諌死だったろうか、その後、直興は藩政不行き届きとして領地を没収せられ、加賀・前田家へお預けとなった。1665(寛文5)年のことで、一柳家による第一次西条藩は三代・三十年足らずで改易による終わりを迎える。

***

 1670(寛文10)年、紀州藩初代藩主である徳川頼宣の三男、松平頼純が3万石で西条藩に入封した。紀州藩の支藩として紀州徳川家が絶えた場合に備える役目を負うたのである。事実、2代頼致は紀州藩主徳川吉宗が将軍となったため紀州徳川家を継いだ。西条松平家は参勤交代を行わない定府の大名であるなど、何かと格の高さが窺われる。ところが明治維新ではいち早く新政府に恭順を示し、官軍として戊辰戦争に参戦している。明治2年(1869年)の版籍奉還と同時に最後の藩主松平頼英は藩知事となり、華族に列せられたというから分からないものだ。

 試みに並べてみると、

 西条藩   松平氏(親藩)・・・紀州藩の支藩
 小松藩   一柳氏(外様)・・・西条藩の一柳氏とは同胞関係。こちらは小藩ながら概ね善政が敷かれた。
 今治藩   松平氏(親藩)・・・伊予松山藩を宗家とする。西条藩同様、明治維新では官軍に与した。
 伊予松山藩 松平氏(親藩)
 大洲藩   加藤氏(外様)・・・勤王の気風強く、明治維新では官軍に与した。
 新谷藩   加藤氏(外様)・・・大洲藩の支藩(「にいや」と読む。)
 宇和島藩  伊達氏(外様)・・・仙台の伊達家につながる
 伊予吉田藩 伊達氏(外様)・・・宇和島藩の支藩

 県の中央から東側に親藩、南側に外様が並んでいる形だ。支藩関係や徳川氏との関係など考慮してまとめると、

・ 西条
・ 小松
・ 松山・今治
・ 大洲・新谷
・ 宇和島・吉田

 これだけ整理してもやっぱり錯綜している。とはいえ、紀州徳川家を本家とする西条藩の位置には独自のものがあり、そのあたりの気位が「かるた」にも表れるものと考えてみたくなる。

 なお、個人的に最も心騒ぐのは「(さ)実朝の七重の塔や金剛院」、実朝の五十回忌(!)の追善供養として、夫人の本覚尼が金剛院光明寺に七重の塔を建立したというのである。美しい建物だそうだが、それにもまして鎌倉将軍の供養塔が伊予路の西条に建てられることに、軽い戦慄のまじった不思議の念を感じる。交通不便なその時代、東人の悼む心を瀬戸内の何が招き寄せたか。そして半世紀にわたって亡夫を偲び続けた本覚尼の心ばえよ。

 *****

あ アンチモン世界に知られる市之川

い 石鎚山は西日本一の神の山

う 植え継いで梛の木残る徳常寺

え 永久に守り伝えよ新居系図

お 大手門三万石の陣屋跡

か 加茂川の流れを変えた常真さん

き 金木犀日本一の王至森(おしもり)寺

く 黒仏さんと呼ばれる仏通禅師像

れ けんらんのだんじり祭り伊勢音頭

こ 光昌寺胎内仏もつ観音像

さ 実朝の七重の塔や金剛院    

し 人材を多く育てた擇善堂

す 杉茂る加茂の山には経塚群

せ 千人塚天正陣の古戦場

そ 尊清が書き残した澄水記

た 高峠の城主の館 土居構

ち 忠烈の四士が眠る常福寺

つ 津に着いて櫟津の岡お飯積さん

て 天正の御霊を送る揚花火

と 遠浅の磯に湧き出る弘法水

な 奈良二彩出土の真導廃寺跡

に 庭の美は室町中期保国寺

ぬ ぬかずいて義民を偲ぶ治平堂

ね 寝起きした密元法師の岩窟跡

の 野萩咲く千手観音秋都庵

は 花の武丈 加藤庄屋が植えたとか

ひ 毘沙門天六十三番吉祥寺

ふ 札の辻藩の高札揚げた場所

へ 遍路らの鈴の音ひびく前神寺

ほ 奉納額四十七士のお碇さん

ま 満福寺 義人荒瀬の墓所

み 民芸館お堀に映えるなまこ壁

む 椋大樹源五をまつるおたちきさん

め 名水のうちぬきが湧く城下町

も 森深く鎮まる大社伊曾乃宮

や 弥生期の高地遺跡や八堂山

ゆ 由緒ある石岡神社の祭ヶ丘

よ 四百年の藤の大木禎祥寺

ら 乱世の歴史を秘めた福武城

り 立左衛門禎瑞拓いた名奉行

る 累代の藩主をまつる東照さん江

れ 連枝として隅切葵の西条藩

ろ 労作の和煦(にこてる)書いた西条誌

わ 湧きかえり歓声ひびく乙女川

Ω


上毛かるたと西条かるた(前)

2018-06-15 08:03:24 | 日記

2018年6月14日(木)

 上毛かるたというものがある。群馬県人なら誰でも知っているもので、ただ存在を知っているだけでなく、諳んじている人も多いのではないだろうか。一方、群馬県の外ではほとんど知られておらず、その対照が見事に際だっている。

 僕自身は小学校三年まで前橋に住んでいながら、その存在を全く知らなかった。桜美林時代に群馬県出身の学生から知らされて、お初に感心した次第である。後述の通り1947年に完成し翌48年には第一回のかるた大会が行われたそうだから、62年から65年にかけて3年も同地で過ごしながらナゼこれを知らずに来たかは、ちょっとした私的な謎に属する。

 「毎年1月の予選大会の後、2月に行われる上毛かるた県競技大会に向けて、群馬県内の子供たちは、冬休みを利用するなどして練習に励む。そのため、子供時代を群馬県で過ごした人は、上毛かるたの読み札をほぼ暗記していることが多い。したがって、県特有の郷土かるたが存在し、それが県民に広く親しまれている地域は群馬県のみであると云う事実を、成人になって知る場合もある。」(Wikipedia)

 もうひと冬、前橋で過ごしていたら、あるいは知ることになったのかな。今はこれほどローカルに浸透している上毛かるた、誕生の由来が感動的である。長めにコピペする。

 「1946年(昭和21年)、旧制・前橋中学出身の浦野匡彦(のちに二松学舎大学学長に就任)は、満州国から故郷・群馬へ引き揚げ、恩賜財団同胞援護会県支部を取り仕切り、戦争犠牲者の支援に取り組んでいた。敗戦後の世情は混乱し、戦争孤児・寡婦などの境遇は悲惨なものだった。また、GHQの指令により、学校教育での地理・歴史の授業は停止されていた。人一倍郷土を愛し、誇りに思っていた浦野は、群馬の子供たちには愛すべき故郷の歴史、文化を伝えたい、という思いを募らせていった[1]。」

 「そのような中、1946年(昭和21年)7月15日に前橋市で開かれた引揚者大会で、浦野は安中出身のキリスト教伝道者、須田清基と出会い、かるたを通じて群馬の歴史、文化を伝えることを提案される。1947年(昭和22年)1月11日の上毛新聞紙上で構想を発表し、県内各方面から題材を募った。郷土史家や文化人ら18人からなる編纂委員会によって44の句が選ばれた。絵札を画家の小見辰男に、読み札裏の解説を歴史研究家の丸山清康に依頼し、その年内に初版12,000組が発売された。翌1948年(昭和23年)には第一回上毛かるた競技県大会が開催される[1]。

1 『「上毛かるた」で見つける群馬のすがた』

 一方、感動には影の面もあった。

 「人物としては、新島襄、内村鑑三、関孝和、新田義貞、田山花袋などが採り上げられている。特に船津伝次平、呑龍上人、塩原太助といった人物は、このかるたで採り上げられることで、現在まで語り継がれたともいえる。一方、勤皇の志士・高山彦九郎、義侠・国定忠治、悲劇の幕臣・小栗忠順などは、GHQにより、その思想や犯罪が問題とされ、不採用となった。」

 採用・不採用を通して義の人が多く、これが上州人の面目か。「天下の義人茂左衛門」などは典型で、それなら小栗上野介などなおさら外すわけにいかない。国定忠治はあまりにも有名だから番外の大物ですむかもしれないが。

 面白いのは不採用の面々のうち、忠治は幕藩体制下の秩序逸脱者、小栗は幕閣きっての傑物、高山は勤王の志士と立ち位置がバラバラなことで、これを見ても分かる通りGHQの判断に高尚な理由などありはしない、少しでも反骨精神のあるもの ~ 進駐軍への抵抗の精神的な支えとなり得るものを、徹底的に除去する悪辣な魂胆が見え透いている。

 小栗上野介忠順(おぐり・こうずけのすけ・ただまさ)は、群馬県人ならずとも是非知っておきたい人物、井伏鱒二の『普門院さん』がこれに絡む逸品である。ところで萩原朔太郎の名が見えないのは、僕の見落としかしらん?ありえない感じだが・・・

*****

い:伊香保温泉日本の名湯
ろ:老農 船津傳次平
は:花山公園つヽじの名所
に:日本で最初の富岡製糸
ほ:誇る文豪田山花袋
へ:平和の使徒新島襄
と:利根は坂東一の川
ち:力あわせる二百万(※ 群馬県の人口の変化に応じて数字が変わる)
り:理想の電化に電源群馬
ぬ:沼田城下の塩原太助
る:ループで名高い清水トンネル
わ:和算の大家関孝和
か:関東と信越つなぐ高崎市
よ:世のちり洗う四万温泉
た:滝は吹割片品渓谷
れ:歴史に名高い、新田義貞
そ:そろいの仕度で八木節音頭
つ:つる舞う形の群馬県
ね:ねぎとこんにゃく下仁田名産
な:中仙道しのぶ安中杉並木
ら:雷と空風義理人情
む:昔を語る多胡の古碑
う:碓氷峠の関所跡
の:登る榛名のキャンプ村
お:太田金山子育呑龍
く:草津よいとこ薬の温泉
や:耶馬渓しのぐ吾妻峡
ま:繭と生糸は日本一
け:県都前橋生糸の市
ふ:分福茶釜の茂林寺
こ:心の燈台内村鑑三
え:縁起だるまの少林山
て:天下の義人茂左衛門
あ:浅間のいたずら鬼の押出し

さ:三波石と共に名高い冬桜

き:桐生は日本の機どころ
ゆ:ゆかりは古し貫前神社
め:銘仙織出す伊勢崎市
み:水上・谷川スキーと登山
し:しのぶ毛の国二子塚
ひ:白衣観音慈悲の御手
も:紅葉に映える妙義山
せ:仙境尾瀬沼花の原
す:裾野は長し赤城山 

Ω

 


カウンセリングオフィスにて

2018-06-13 18:02:10 | 日記

2018年6月12日(火)

 放送教材のロケで、カウンセリングオフィスSARAを取材。

 カウンセリング機関を開くのに届け出は不要だそうで、正確な実態はわからないがかなりの勢いで急増中という。もちろんユーザーの着実な増加が前提にあるわけだが、カウンセリングを活用することへの心理的な抵抗が減ってきたのが一因だろうと、Y君・Aさんの一致した印象。それにはスクールカウンセラーという制度が一役買っているらしい。

 旧文部省のスクールカウンセラー事業が始まったのは1995年、開始年度は全国154校が対象だった。2001年からは文科省のもとで全公立中学校、2008年からは全公立学校への配置・派遣が計画的に進められ、私立学校でも臨床心理士資格認定協会などの主導する私学スクールカウンセラー支援事業が2010年から実施されている。この制度の普及につれ、カウンセラーというものが身近にいる状況を当たり前に受け止め、必要時には自然体で来談し活用する空気が他ならぬ生徒らに浸透した。その世代が今青年期から壮年期にさしかかりつつある。

 Y君らの手づくり統計で最多を占める来談者層は20代から40代、スクールカウンセラーを知る世代が登場してきたというのがK君らの解釈である。学校環境の変化が社会環境全体に影響を及ぼす好例か。だから学校教育は大事なのだ。プラスもマイナスも、何乗かに増強される。

***

 取材は粛々と進み、仕上げにオフイス内の様子を撮影する段取り。箱庭療法の道具一式が室内に登場すると、男女5人の撮影スタッフが一様に歓声を上げた。

 触っていいですよ、フィギュアを好きなように並べてみて、とY君の許可が下りるが早いか、引かれるように集まってくる。

 一番乗りはカメラさん、宇宙ロケットをいそいそと持ち出した。「発射台、砂山が要るでしょう」とサブディレクターが砂をかき寄せる。砂の下から現れた青い水面に音声の女性が船を置き、助手の若者が橋を架ける。この彼は2時間ほどの収録作業の間みごとに存在を消していたのに、今は表情を輝かせて冗談まで口にする。「抽象的な感じで」とガラス玉を点在させるもの、「緑がない、緑が要ります」と木々を刺していくもの、5人それぞれ自分の置きたいものを置きながら何となく配慮しあっている。ロケットに這い寄る巨大な黒蜘蛛、「ハリウッド風に」GとMの看板、「Gが上下逆じゃないですか」と助手君。

 箱庭療法で子供たちに起きるはずの/起きてほしい変化が、制作スタッフに瞬時に起きた。「仲良く遊んでますね」とY君愉快そうである。

(カウンセリングオフィスSARAの許可を得て掲載)

 ***

 帰り際、土曜の晩の新幹線内の事件に話が及んだ。僕は出かけていて見なかったが、その場に居合わせた人々にかなり踏み込んだインタビューがあり、テレビで流されたようである。Y君が顔を曇らせ、制作スタッフらが同調した。

 「マズいです、配慮がなさ過ぎます。」

 凶行前後の様子を執拗に訊いたりすれば、外傷的な記憶の心理的効果を増強する恐れがある。災害現場での援助でも、のっけから踏み込み過ぎないことが重要とされる。メディアのもつ力の強さと大きさ、それゆえのリスクをもう少し自覚してほしい。あるいはもう少し勉強してほしい。

***

b0164726_22105019.jpg
沙羅双樹 (気ままな写真帖 https://gonbe0526.exblog.jp/18492062/ より拝借)

 SARAの由来は沙羅双樹。それでふと思い出したが、

「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき」
(多麻河伯尓 左良須弖豆久利 左良左良尓 奈仁曾許能兒乃 己許太可奈之伎 (万葉集 巻14・3373))

 これにちなんで愛嬢を「さら」と名づけたお母さんがあった。そろそろ20代の半ばに達していることだろう。

Ω


生きてきたように/その瞬間の重さと軽さ

2018-06-12 11:07:27 | 日記

2018年6月12日(火)

 忘れないうちに。

 コンゴ出身の神父が葬儀を司り、説教の冒頭で紹介したフレーズ:

  Il est mort comme il a vécu.

 「人は生きてきたように死んでゆく」とでも訳しておこう。フランス語ではよく知られた言い回しだそうで、死生学の要諦を一文に凝縮している。

 僕がこの言葉に初めて触れたのは、淀川キリスト教病院にホスピス病棟が開設される直前、柏木哲夫氏の南支区の講演の中でだった。ちょうど話の結びあたりで引用されたものと記憶する。

***

 もう一つ、みとりの中で「その瞬間」は実はさほど大きな意味をもたない。少なくとも、早くから心がけて準備を進めてきた人々にとってはそうである。親の死に目に会えるかどうかが深刻な問題になるのは、日頃の対面・交流が叶わないような時代/境遇/心がけの然らしむるところで、そこに痛ましさの看取される場合が少なくない。そうならずに済む備えを、できるものならしておくべきなのである。

 岳父他界のあくる朝、子らの一人が「寂しいけれど爽やか」と気もちを表現した。葬儀の晩、別の一人が別の場面でまったく同じ言葉を使った。そのように言える事情と背景を、年余にわたって見せてもらっている。

 備えある人々に敬意を表す。

Ω


ニライカナイと better place

2018-06-10 15:03:45 | 日記

2018年6月11日(月)

 ブログに寄せられるコメントを、最初は自動的に公開される設定にしていたが途中から要許可に変えた。悪意ある/非建設的なもの ~ 滅多にないとはいえ ~ を弾くのが目的だったが、コメントの送り手があからさまな公開を望まない場合などにも有用である。こちらがそう思い込んでいるだけかもしれないが。

 本日の送り手さんは、祝福の在り処を天に委ね「人間同士の裁き合いに心乱れる小さな自分を脱する」ことを願っている。「天爵」という言葉を連想した。願いが叶うことを切に祈る。真剣に願う価値のある、数少ない願いの一つである。

***

 ニライカナイは東方の海上にある楽園で、沖縄の人々の魂はここで誕生しここに帰る。それを七回繰り返すと親族の守護神に昇格するが、それもニライカナイで起きることである。

 いわゆる「他界」の典型と見えるが、ある人によればむしろ「異界」だそうだ。両者の異同は微妙で興味深い。他界でもあり異界でもあると言えば言い抜けられそうでも、「それって要するに異界でしょ」とも言われそうで。いずれにもせよこの海は、原初の想像力に似つかわしい美しさと大きさに満ちていた。現実にその海からやってきて居座ったのは、こともあろうに米軍だったが。それでも1977年には、あたかも沖縄全体がひとつの異界のように思われた。今は完全に「こちら側」である。

*** 

 1994年から1997年にかけての留学先の研究室に、ジョアン・ラブリュエール(Joann Labruyere)という女性がいた。有能・慧眼の技官としてジョン・オルニー(John Olney)の研究室を支え、私生活ではいかにもポーランド系らしい敬虔素朴なカトリックの信徒だった。Labruyere という姓はフランス系の御主人のもので、推測通り彼もまたカトリックだと後に知った。

 ジョアンのお母さんは認知症に陥って施設に入っており、糖尿病を併発して体の具合も良くなかった。ある日、仕事中に電話がかかり、ジョアンが珍しく血相変えて出て行った。それが確か金曜日のことである。週明けの研究室に彼女の姿があり、いつも通り穏やかな様子だったので、てっきり持ち直したものと安堵した。「お母さんはどう?」と声をかけたら、静かな声で返事があった。

 "She passed away."

 表情には微笑さえ浮かんでおり、てっきり自分の耳が間違えているのだと思った。やがて澄んだ緑の瞳のまわりが微かに赤らみ、間違いではないと知った。

 "Thank you for asking, Masahiko, she is now in the better place."

  better place という言葉をその後も何度か聞くことになる、たぶんこれが初めだったと思う。

 "Gone from the earth to the better land I know,"

 中学時代に音楽の授業で教わった "Old Black Joe" の一節である。ジョアンも親戚や友達から「ジョウ」と呼ばれていた。そのジョアンが、ずっと年長のオルニーに続いて2016年に他界したこと、想像だにしなかった。ジョアンの訃報は所属教会の関係でネットに公告されている。お母さんと同じ better place に移されたのだ。オルニーは僕の問に対して無神論者だと答えた。葬儀はどのようにしたのだろうか。

***

 俳句には観察(力)が必須であるということ、理論化と宣布は子規に待つとしても、そもそもの本質にあるのだろう。観察自我の働きといってもよく、脳トレに格好なのに違いない。

 それで思い出したのが、やはりセントルイスでのこと。渡航直後のある日、Mac のノーパソ上で日本語文を打っていたら、目ざとく見つけて騒ぎ出したのがマイクル・セズマである。このやんちゃな男は母親が日本人で日本に住んだことがあると称し、「弁当」とか「便所」とかときどき単語だけ口にした。だから猶更かもしれないが、1994年当時 Mac のOSの日本語版(非欧米語版?)が米国人によほど珍しかった証明ではあろう。

 ともかく騒ぎの好きなマイクがいつもの倍ぐらい大騒ぎして、向かいの部屋のマデロン・プライス(Madelon Price)をわざわざ呼んできた。こちらは、目から鼻に高速道路が通っているようなユダヤ系女性教授だが、声の大きさはマイクに負けない。駆け込んでくるなり画面の日本語を見て、人の頭上で節をつけて叫んだ・・・

 "Oh, I am so impressed!"

 この言葉の不思議にこちらの頭がフリーズした。

 和訳するなら「あれまあ、何て面白いこと!」とでもなるのだろうが、英語のそれは"Oh"を取り除けば、「私は強い印象を受けている」という観察文でもある。それが驚きだったのである。すべての場合に当てはまるかどうかはさておき、英語は主観的な感動を表す場合にも観察が並起する。対する日本語は「まあ、きれい!」式の即自的な没入が本線であろう。ここを起点に何か言えたりしないだろうか。

 結局何の展開も起きはしなかったが、この時の不思議の感覚がマデロンのよく通る声とともに、今日までずっと記憶に残っている。即自的な感嘆を身上とする日本語が、俳句において透徹した観察を求める面白さを、今は思う。

 マデロンは健在らしい。

Ω