2月15日の0時34分に、私たち夫婦に第一子が誕生した。女の子である。今回は書き方を少し変えて、出産までの経過を時系列に記録しておく。
■2月13日
19時14分
妻からLINEで「夕方からお腹に張りが出てきたけど、陣痛かどうかはまだわからない」と連絡が入る。
23時00分
妻と電話で話す。「前駆陣痛っぽい感じはあるけど、まだまだ病院に連絡するようなタイミングではないねー」という感じ。
■2月14日
02時07分
妻から電話。「陣痛らしきものが10分間隔くらいであるので、一度病院に行って見てもらう」とのこと。
03時26分
妻からLINEで「前駆陣痛(このまま収まる)か本陣痛かわからないが、とりあえず朝まで入院することになった」と連絡。
04時38分
妻からLINEで「モニター検査の結果、本格的な陣痛には程遠いが、一応朝にもう一度検査するらしい」と連絡。
07時05分
妻からLINEで「痛みが強くなってきた」と連絡。この時点で私も病院に向けて出発。
09時25分
私が病院に到着。陣痛は約10分おき。子宮口は1センチ位開いているとのこと。ここから付き添い。この頃は妻にも余裕があり、私も専用アプリを使って陣痛の間隔を計ったり、軽く腰をさすったり、2人でウトウトしたりして過ごす。
※ここから先は時間感覚もおかしくなり、記憶も定かでないので、少し曖昧な記録になる。
15時00分頃
妻の陣痛がどんどん強くなってきて、陣痛が来るたびに強く腰をさすったり、お尻を押したりするようにして痛みを逃がす。でも、子宮口は3センチも開いていない。助産師さんが痛みの逃がし方や呼吸法などについて詳しくアドバイスをしてくれた。
20時00分頃
この頃になると、妻の陣痛を痛がる様子が見ていられないほどになってくる。陣痛が来るたびに全力でお尻を押し、習っていた呼吸法を維持するよう手伝う。子宮口は7センチくらいなのでまだ少し早いのだが、これ以上経つと移動が大変になるかもしれないとのことで、分娩室へ移動する。ここからは、助産師さんもほとんどずっと一緒にいてサポートしてくれた。
21時40分頃
陣痛の痛みがとんでもないことになっていることが、妻の様子から嫌というほど伝わってくる。目の前で妻が拷問を受けているが、何も出来ない感覚。ただただ妻の手を握り、ありったけの力を込めてお尻を押す。しかし、陣痛の間隔が少し空いてきてしまい、一度準備室へ戻ることになる。準備室に戻ったところで、助産師さんから「旦那さんは少しでいいので眠ってきてください」と言われ、一旦妻の病室へ戻る。しかし、横になっても全然眠れない。
22時30分頃
私が戻った時には、妻は弱気になってきていた。私が一緒にいなかったせいだと自己嫌悪。妻の「もう無理!」という言葉を聞いて、助産師さんに「今からでも帝王切開にしてくれませんか」と依頼。しかし、子宮口の開き具合も良い(10センチ)から、もう少しなので頑張ってみましょうと言われる。そして、再度分娩室へ移動。少しずついきみ始める。
23時30分頃
いきんでもいきんでもなかなか赤ちゃんが下りてこない。助産師さんが吸引分娩が出来るかどうか相談しようと医師の先生を呼んでくれたが、まだそれが出来る状態ではないとの診断。また、その診察そのものがかなりの激痛らしく、のた打ち回る妻。ここから1時間、とんでもない激痛に耐え、汗だくになりながら妻はいきみ続けた。私は、助産師さんの指示を受けながら、いきみやすいように妻の足の裏をつかみ、いきむタイミングに合わせてお腹のほうに引っ張るという行為をただただ繰り返す。しかし、妻のいきむ力が強すぎて、私が全力で引っ張っても足はなかなか動かない。この頃には、妻だけでなく私も汗だく。
■2月15日
00時20分頃
どう考えても妻の体力は限界を超えている。このままだと本当に死ぬんじゃないかという不安が頭から離れなくなる。しかし、ここで助産師さんから「あと1回とは言えないけど、もうあと数回で出て来ると思うから、頑張ろう!」と言われる。そして、ここからは医師の先生も常駐に。会陰切開も確かこの時にしたのだと思う。以前の私はこの会陰切開というものが怖くて怖くて仕方がなかったのだが、いざその時にはそれどころではなくなっていた。妻も、そこに関しては全くのノーリアクション。ここまでの苦しみに比べたら、そんなものは何ともないのだろう。
00時34分
ついに、ついに、赤ちゃんが出て来る。生まれてきた我が子の姿を見た瞬間、自分でも驚くほど大量の涙が溢れ出てきた。そして、これもまた驚くほど自然に、妻に向かって心から「ありがとう」という言葉が出て来た。この時の妻の表情、助産師さんやお医者さんからの「おめでとう!」の声、そして赤ちゃんの初めての泣き声は、一生忘れないと思う。
00時40分頃
妻の出産後検診のため一旦病室に戻って、親族に連絡。ちょっと寝ようかとも思ったが、アドレナリンが出まくっていて全く眠くない。
01時00分頃
分娩室に戻り、妻と赤ちゃんと対面。この時の最初の感想は「よくこんな大きなものが出て来たな」というもので、「かわいいな」はその次だった。投薬や経過観察のために、ここから2時間ほど分娩室で過ごす。元気な赤ちゃんと、無事に生きている妻を見て、心から安堵する。そして、ずっと寄り添ってくれた助産師さんに、心から感謝した。妻が点滴を受けている間、赤ちゃんの手を握ってみたり、匂いをかいでみたりする。ミルキーのような甘い匂いがした。
03時30分頃
妻と一緒に病室へ戻り、妻はベッドで、私はソファで横になる。私は45時間くらい、妻はそれ以上に眠っていなかったので、さすがにこの頃になると睡魔がやってきた。ここからも妻は1時間ごとに検査があったりしたのだが、一応これにて出産の流れは終了となる。
ここからは、「出産で大変だったのは妻であって、それに比べたら夫である私の感じた大変さなんかはくそみたいなものだ」という圧倒的な真実を一旦置いておいて、出産に立ち会った私が感じたことを書いておきたい。
まず率直に言いたいのは、立ち会いは地獄だということ。自分の一番大切な人が目の前で拷問を受けているのに、自分に出来ることは何もないという状況が延々と続くのだ。腰をさすったり、お尻を押したり、汗をふいたり、水分補給をしたり、呼吸を整えたり、励ましたり等々、今改めて文字にしてみれば、”やること”はそれなりにある。しかし、「妻がこれだけ苦しみながらも頑張っているのに、俺に出来るのはこんなことしかないのか」というあの無力感は本当にたまらないものだった。
では、次の機会があっても立ち会いはしないのかというと、結論から言えば、間違いなく立ち会う。しかしそれは、「赤ちゃんが生まれた瞬間の感動がすごくてー」なんていう理由ではない。「1度立ち会ってしまったから」である。今回、出産後に妻から「あなたが一緒にいて励ましてくれなかったら最後まで頑張れなかったと思う」と言われた。その時私は素直に嬉しかったが、一方で「これで『次回は立ち会わない』という選択肢は消えたな」と思った。1度立ち会って、妻から「立ち会ってくれて良かった」と言われたのに、次は立ち会わないなんてありえない。妻がもう1度あのチャレンジをする覚悟を決め、そのために私の立ち会いがほんの少しでも役に立つのなら、夫として逃げるわけにはいかないだろう。もし逃げてしまったら、そこで夫婦関係にひびが入るんじゃないかと(かなり本気で)思う。逃げるにはもう遅い。逃げるなら、最初の出産の時から逃げなければならなかったのだ。ちなみに、だから私は妻に「次は帝王切開にしない?」と提案している。妻も「うん、出来ることなら私もそうしたい」と言っている。もちろん、帝王切開には帝王切開のリスクや大変さがあるのだろうが。
次に、妻に対しては、本当に心から「ありがとう」という気持ちになると共に、今まで誰にも抱いたことのないレベルで尊敬の念を抱いた。巷でよく言われている「母は強し」という言葉の意味が、実感をもって理解できたような気がする。そしてその実感は、これからも繰り返し感じながら、強くなっていくような気がしている。一方で、私は「強い母」にはなれないかもしれないけれど、それとは別の形で子どもの幸せに寄与できるような父親像を模索していこうと思う。まだ、それがどういうものかはわからないけれど。とりあえずは地道に、おむつ替えを完璧にマスターするところから始めましょうか。
続いて、病院の皆さん、特に助産師さんに対しては、本当に感謝の気持ちでいっぱいである。他の病院がどうなのかわからないので比較は出来ないが、今回お世話になった助産師の皆さんは本当に全力で妻を支えてくださった。冷静でありながら温かく、時には励まし、時には落ち着かせ、熱心にサポートをして頂いた。仕事柄、今まで私は様々な業種の方々と接する機会を持ってきたが、助産師という仕事にはまた格別の素晴らしさがあると思う。出産後の授乳や沐浴、抱っこやお世話の仕方などのアドバイスもたくさん頂いたし、退院の際には「わからないことがあったらいつでも電話してね」と優しく微笑んでくださった。私たちにとっては、天使のような存在だった。本当に本当に、ありがとうございました。
最後に、出産まで里帰りしていた妻を支えて下さり、出産後も面倒を見てくださっている妻のご両親とお婆さん、私の両親をはじめとしてずっと気にかけてきてくれた家族や親族、友人たち。それに、「仕事なんかなんとでもなるんだから奥さんのことだけ考えろ」と言って仕事をフォローしてくださった職場の方々。みなさんのフォローがなかったら、今こうして無事に子どもを迎えることは出来ていなかった。本当に、ありがとうございました。
娘の名前は「千鶴」に決めた。前々からほとんど決めていて、出産後の分娩室で妻と再確認し合って、すぐに決まった。まあ、生まれる前から私が勝手に「ちーちゃん」と呼び続けていたから、半ば強制的だったのかもしれないけれど。