鎌倉の二階堂と小町大路の御朱印巡り、小町大路に向かいます。
二階堂から金沢街道に出てしばらく歩くと金沢街道は左に曲がり、三叉路に出ます。バスはここを右折し鶴岡八幡宮前に向かいますが、直進する細い道が小町大路です。
鎌倉駅から鶴岡八幡宮に向かう近道として観光客向けのお店が並ぶ小町通りと紛らわしいのですが、小町大路は鎌倉幕府が整備した古道、小町通りは関東大震災後に整備された新しい道です。
この三叉路の左手にあるのが宝戒寺です。萩の寺として知られる天台宗の寺院です。
宝戒寺の敷地はかつて北条氏の屋敷があった場所で、北条最後の執権である高時は1333年に新田義貞に攻め込まれ、南東200mにあった東勝寺で自害、870名ほどの郎党も運命を共にし鎌倉幕府は滅亡しています。このように多くの犠牲者が出たことから後醍醐天皇は北条一族の供養のため円観慧鎮に宝戒寺を創建させています。
宝戒寺の御朱印です。
小町大路を海に向かって進みましょう。鎌倉時代には商店が並び人通りが多かったそうで、日蓮宗の宗祖・日蓮が辻説法を行ったのも小町大路だったとされます。そのような経緯から日蓮宗の寺院が多いのも小町大路の特徴です。このため以下ご紹介するお寺は全て日蓮宗のお寺になります。
宝戒寺から5分ほど歩くと妙隆寺があります。
1385年に千葉県(下総)の御家人だった千葉胤貞が自らの別邸に創建したお寺です。胤貞は熱心な法華経信者で、本領の下総にもいくつかのお寺を創建しています。胤貞は名前の通り千葉県に本拠を持っていましたが、鎌倉幕府の命で九州の肥前に土着、その間に叔父の貞胤に本拠を奪われています。成敗のため下総に向かう途中亡くなってしまい、子孫は下総の所領を回復できずそのまま肥前に残り、佐賀藩の家老として存続しています。のち京都に本法寺を創建する日親が2代目の住職として入っていたお寺です。
妙隆寺は鎌倉江の島七福神の寿老人になっています。もちろん七福神の集印でお参りする方が多いのですが、聞いてみたら御首題も書けますとのことで御首題をお願いしました。
妙隆寺の御首題です。「叡昌山」とありますが、この山号は日親がのちに京都に開く本法寺と同じ山号です。
こちらは「鎌倉 日蓮堂」です。
2021年には日蓮宗が建てたお堂で、辻説法を行っている日蓮像が納められています。新しい布教拠点として活用したいそうですが、今は像が置かれているだけで無人です。お寺という形ではない新しい施設なので、例えば土日だけでも輪番でお坊さんに入ってもらって信者の方の仏事相談に乗るとか御首題対応をしてもいいのではないかと思いました。
日蓮堂の先に本覚寺の大きな門が見えます。
本覚寺は日蓮宗の本山で、1436年に日出により創建されています。元々この地には日蓮が佐渡から戻った際に滞在した夷堂があり、初代の日出は天台宗のお堂であった夷堂を本覚寺に改宗しています。
本覚寺の2代目の住職は日朝で、のち身延山久遠寺の11代となり久遠寺の中興の祖とされています。以前お参りした身延の覚林坊も日朝ゆかりです。日朝の尽力で久遠寺にある日蓮の遺骨を分骨し「東身延」とも呼ばれます。当時は身延に行くことは難しく、東国から参詣者を集めたそうです。1974年に本山に昇格しています。
本堂は大正期のものです。
こちらの夷堂では鎌倉江の島七福神の恵比寿様を祀っています。
本覚寺でも御首題が書けますとのことでお願いしました。
本覚寺の御首題です。
長くなってきましたので今回はここまで。さらに続きます。
二階堂から金沢街道に出てしばらく歩くと金沢街道は左に曲がり、三叉路に出ます。バスはここを右折し鶴岡八幡宮前に向かいますが、直進する細い道が小町大路です。
鎌倉駅から鶴岡八幡宮に向かう近道として観光客向けのお店が並ぶ小町通りと紛らわしいのですが、小町大路は鎌倉幕府が整備した古道、小町通りは関東大震災後に整備された新しい道です。
この三叉路の左手にあるのが宝戒寺です。萩の寺として知られる天台宗の寺院です。
宝戒寺の敷地はかつて北条氏の屋敷があった場所で、北条最後の執権である高時は1333年に新田義貞に攻め込まれ、南東200mにあった東勝寺で自害、870名ほどの郎党も運命を共にし鎌倉幕府は滅亡しています。このように多くの犠牲者が出たことから後醍醐天皇は北条一族の供養のため円観慧鎮に宝戒寺を創建させています。
宝戒寺の御朱印です。
小町大路を海に向かって進みましょう。鎌倉時代には商店が並び人通りが多かったそうで、日蓮宗の宗祖・日蓮が辻説法を行ったのも小町大路だったとされます。そのような経緯から日蓮宗の寺院が多いのも小町大路の特徴です。このため以下ご紹介するお寺は全て日蓮宗のお寺になります。
宝戒寺から5分ほど歩くと妙隆寺があります。
1385年に千葉県(下総)の御家人だった千葉胤貞が自らの別邸に創建したお寺です。胤貞は熱心な法華経信者で、本領の下総にもいくつかのお寺を創建しています。胤貞は名前の通り千葉県に本拠を持っていましたが、鎌倉幕府の命で九州の肥前に土着、その間に叔父の貞胤に本拠を奪われています。成敗のため下総に向かう途中亡くなってしまい、子孫は下総の所領を回復できずそのまま肥前に残り、佐賀藩の家老として存続しています。のち京都に本法寺を創建する日親が2代目の住職として入っていたお寺です。
妙隆寺は鎌倉江の島七福神の寿老人になっています。もちろん七福神の集印でお参りする方が多いのですが、聞いてみたら御首題も書けますとのことで御首題をお願いしました。
妙隆寺の御首題です。「叡昌山」とありますが、この山号は日親がのちに京都に開く本法寺と同じ山号です。
こちらは「鎌倉 日蓮堂」です。
2021年には日蓮宗が建てたお堂で、辻説法を行っている日蓮像が納められています。新しい布教拠点として活用したいそうですが、今は像が置かれているだけで無人です。お寺という形ではない新しい施設なので、例えば土日だけでも輪番でお坊さんに入ってもらって信者の方の仏事相談に乗るとか御首題対応をしてもいいのではないかと思いました。
日蓮堂の先に本覚寺の大きな門が見えます。
本覚寺は日蓮宗の本山で、1436年に日出により創建されています。元々この地には日蓮が佐渡から戻った際に滞在した夷堂があり、初代の日出は天台宗のお堂であった夷堂を本覚寺に改宗しています。
本覚寺の2代目の住職は日朝で、のち身延山久遠寺の11代となり久遠寺の中興の祖とされています。以前お参りした身延の覚林坊も日朝ゆかりです。日朝の尽力で久遠寺にある日蓮の遺骨を分骨し「東身延」とも呼ばれます。当時は身延に行くことは難しく、東国から参詣者を集めたそうです。1974年に本山に昇格しています。
本堂は大正期のものです。
こちらの夷堂では鎌倉江の島七福神の恵比寿様を祀っています。
本覚寺でも御首題が書けますとのことでお願いしました。
本覚寺の御首題です。
長くなってきましたので今回はここまで。さらに続きます。