Jun日記(さと さとみの世界)

趣味の日記&作品のブログ

2016-07-14 05:12:26 | 日記

、花っていいなぁと思ったのは、春咲くタンポポが最初でした。

黄色い花花が咲き出した、冬が終わって暖かくなった頃、もう雪が降らない寒さが遠のいた春の訪れとともに、

ほっとした安堵の心に明るく触れて入り込んできた花、それが黄色い可愛いタンポポの花でした。

 その後、私は菜の花が好きになり、成長と共に様々な花を知り、色々な植物へと目が向いていくのですが、花の名を知ってもどうという事も無く、心の動かない花も幾つかあったことでした。

世によく知られている、一世を風靡した時代もあったチューリップなども、幼児期には可愛いと思いながら好んで絵にかいていながら、私にするとそう心動かない花の1つでした。

また、バラなどはやはり美しく思い、内心好きだと思いながら、当時高価でありなかなか手に入らなかった事の反動から、「とげがあるから嫌い。」などと心にもない事を言ったりしたものです。

しかし、美しい花は美しいと思い、好きだと思う、憧れや愛でる気持ちは普通にある方だと思います。

 大人になると、ランやボタンやシャクヤク、月下美人、等々、実際に育てたり、見る機会を得て、大いに楽しむことができたものですが、育てて目を注ぐと、何でも無い、何とも思っていなかった花や木が新鮮に好ましく思われることが多々ありました。

自分で育てた植物というのは、同じ植物でも他所で見るより美しく愛おしく思われます。1度でも植物を育てた方にはお分かりだと思います。

 さて、私は花に例えて何を言おうとしているのでしょう。

今まで出会って来た人々は、いわば私の歴史の庭に咲く花であり樹木でした。肥料をやったり水やりしたり、そんな風に気持ちを傾けて関わりあった人もいれば、特に気にしない内に傍らで自然の陽光を受け育っていた花花、緑、中には風貌や名前も知らぬ人々、同級生もいたものです。

 美しい花は美しく特に記憶に残っているのですが、それぞれに、どこかの歌の文句ではないのですが、その人にとっての「一つだけの花」とは限りません。自分にとっての一つだけの花でなくても、美しいものは美しい、そう感じることができた時、一般的に皆そうだと知った時、私は自分に普通に審美眼があった事を嬉しいと思いました。

 友人に亡くなった同級生の事をハンサムだといってから2、3日後。同級生の女子2、3人から、

「しょうがない、Junさんに○○くん譲った。」

と言われましたが、私には全くの驚きでした。

譲られたことが驚きなのではなく、なぜ私が○○くんと付き合わなければならないのかが驚きだったのです。

 何となく日頃ハンサムとみていた人が、女子の噂話でもそうであったことで、やはりそうなのだ、私の審美眼は間違っていないと嬉しく感じたのでした。そんな気持ちのまま友人に○○くんハンサムだねと言ったことが、2、3日経つとクラスの女子何人かに譲られるという事になるとは、当時の私は予想もしていなかった事でした。

しかも、放課後偶然?○○くんと帰宅が一緒になり、○○くんはハンサムだ、クラスの女子も話していた。と、褒めてあげたので、友人にこの話をしたところ、

「○○くんに言ったの、ハンサムだって!?」

と、大変だ、本人に言ってはいけなかったのに風に言われたので、この点についても全く無知であった私は、以降噂話や何かの時にはそれとなく敬遠される事になったようでした。

 『何でも気持ちの向くままに話すべきではないな。』

と、ちょっとした教訓になりました。

 お付き合いしたくてハンサムと言ったのではない、譲って欲しくて言ったのではない。言ってきた同級生にはその旨説明したのですが、多分、当時も今も分かった人には分かり、分からない人には分からない、世の中ってそんな物かもしれません。小学校の頃の話です。

1つだけの花でなくても、美しいものは美しく、世間一般が好むように好ましく、そして無くなってしまえばぽっかりと庭に更地が開いたような喪失感を覚える。自分史から1ピース欠けた寂しさとそれなりの虚脱感を覚えるものなのだと、今回まさに経験しました。