今日は海の日ですね。
こちらはあまりぱっとしたお天気ではなかったように思います。
雨こそ降りませんでしたが、どんよりと梅雨の蒸し暑さを感じる気候でした
東海地方は梅雨明けしたそうですから、こちらももう少しかなと思うと、空梅雨という声もちらりほらり聞こえる今年です。
この連休は久しぶりにせっせと読書、本の虫と化していました。読書はよくしたほうですから、学校時代が懐かしく思われました。
図書館で借りてきた本をすべて読み終えて、連休も終わり、梅雨も終わり、いろんなものが終わる、そんなことを感じる夏の初めです。
海水浴の思い出の話でした。
父はよく夏になると海水浴に連れていってくれました。だから父のイメージは海が強く、頭に手ぬぐいを縛り、遠泳をしていた姿が思い浮びます。
父は冬生まれでしたから、夏の暑さには弱かったのでしょう、暑い時期体の冷える海、海水浴、しかも海の家にさえ入らなければ無料という手軽さは大いに父好みであったといえるでしょう。父は自他共に認める倹約家でした。
亡くなる2年ほど前から、2月末、3月のはじめ頃になると、
「また暑い時期が来るのか」
というので、私はまだ冬は終わったばかりなのに気の早い、呆けていても冬の寒さが緩んだばかりよと飽きれたものでしたが、
「あんな暑い時期が又来るのか」
と再び言うので、近年の猛暑、酷暑を覚えているのかしらと訝った物でした。
父の物忘れの度合いというと、覚えていない事はほんの2、3分前の事、言った傍から聞き返すこともあったのに、一年、半年前の夏の暑さを覚えているのかしら?と訝ったわけです。
もしかすると呆けてないのかな?そんなことを思ったりしましたが、やはり認知症は認知症だったのでしょう。
冬の寒さが緩むと夏の暑さを気に病むという慣例を、口に出さずに長年来たものが、年のせいで愚痴るまでになっていたのかもしれません。
それで、夏の海水浴が好きだったことと関連付いて、父には夏の暑さが相当のダメージを与えていたのだろうと今になって思うのです。
海水浴の思い出、近くの島までよく遠泳した父に、私と母は
「危ないから止めたら、遠い島までの途中何かあってもすぐに助けられないから。」
と、よく止めましたが、父は毎年の夏の恒例のように、必ず1回は島までの遠泳を欠かしませんでした。
その間、母と私は浜辺で遠くなる父の白い手ぬぐいを目印に、あそこまで泳いだとか、あんな所でひと休みしている(疲れると立ち泳ぎして休むそうでした)とか、青い波のまにまに動いていく白い点を気遣って心配しながら見守っているのでした。
往復には2時間はたっぷりかかるので、母と私は所在無さや、何時までも心配するという不安から逃れるためにも、海水浴に、砂遊びに気を紛らわしながら、それでも時折沖の白い点を探すという父の遠泳に、私は気遣いの精神的なバランスをとるのに努力して、その内慣れてしまったものでした。
母はというと、自分が見ているからと、私には遊んでくるように言いながら浜辺に立っていたものでした。
私は母が見ているからと安心して海水浴を楽しみましたが、2、3回ほど父が見えなくなったと母が騒いだことがあり、
その都度大丈夫だったようですが、父は時には人に付き添われて浜に上がって来たことがありました。
「大丈夫だから」とにこやかでしたが、今から考えると実際はどうであったのか不明です。
思えば家族泣かせな父であったことです。
海水浴にはおにぎりと漬物、水筒にお番茶、ゆで卵など、シンプルなお弁当でした。1日がかりの行楽で日焼けして真っ赤、2、3日後には真っ黒、皮がむけてむけてなど言ってぽろぽろの顔や肌をしていたものです。
父は「海水を浴びてくると風邪をひかないで1年元気だ」などいい、これで大丈夫と上機嫌でした。
しかし、実際には私はよく風邪をひく方でした。1シーズンに3回は風邪を引いたので、海水浴の効果は私には皆無だったようです。