黒いアスファルトの道を歩いて、雨も止んだとホッとしていると、道に祖母の姿がみえました。
あ、お祖母ちゃん。そう言って駆け寄ると祖母も気付いて、危ないから走らないようにと注意してくれます。
「お母さんは?」
1人なのかと祖母に訊かれて、そうだ、母はまだ見ていたいと言っていたから置いて来たと言うと、
祖母は呆れて、子供1人でこんな日に歩かせるなんて、とみるみる顔が怒りの形相に変わりそうになりました。
が、祖母も長年の経験で慣れていたのでしょう、私の視線に気付くと直ぐに何時もの平穏な顔に戻りました。
祖母はいつもニコニコと穏やかな顔をしていて、私には滅多に激しい感情の面を見せる事がありませんでした。
祖母には既に何人も孫がいたので、孫慣れ、祖母然とする術を心得ていたようです。
「お母さんはね、」
道の途中までは一緒だったけれど、戻ってまた見て来ようというので、もう1人で帰れる所まで来ていたし、
私は戻りたくなかったから、1人で帰れるって言って、お母さんだけ見てくればいいよと言ったら、
そうと言って戻って行った。
雨ももう止みそうだったから、戻りたくなかったし、しつこく言われたくなかったから、
Junちゃんからお母さんに1人で見て来ていいよって言ったんだ。と話します。
「可愛そうで、泣いている人もいたし、戻りたくなかったの。」
ぽそぽそと祖母に訴えて話します。
祖母はそうと言って佇み、私が今来た道の方向を見ていましたが、母の姿は見えなかったようでした。
こんな小さい子でもこうなのに…、そういって祖母は暫く母を待っていたようでしたが、
その内2人でお家に帰ろうね、と、私を手招きして家路についたのでした。
雨も止み、道にも水が流れる事なくアスファルトが開けていましたから、
帰宅した私は庭の水も引いた事と思っていました。
庭も水が無くなったでしょ、と私が祖母に言うと、祖母は妙な顔をして黙っていました。
家に着いたのに、祖母は玄関先から動こうとしません。
しかも戸口に寄って、恐る恐る外の様子を窺いながら戸を開けたままにして待機していました。
『お祖父ちゃんを待っているんだ。』
私はそう思いました。
祖父が出て行く時に、祖母はとても心配して居て、
お父さんが行かなくても、息子に全部任せて置いたらと盛んに引き留めていたからです。
祖父の顔を見るまでは不安で、まんじりともしない心境なのだなと孫の私にも分かりました。
私は家について安心したので、直ぐにひょいっと玄関の畳に上がり奥に行こうとしました。
あ、お待ち。と、祖母は慌てたように私を引き止めました。
奥に行かない方がいいよと言うのです。
私には事情が分かりませんでしたが、奥が酷い事になっているだろうと思う。と祖母は言うのです。
酷い事、というと、その時の私の頭に浮かぶのは水に浸かった家や屋根でした。
でも、家の周りの道には水がなかったのに、家が水に沈むと、いえ、沈んでいるとは思えません。
事実、今足の下に踏みしめている畳にも何の変化も無かったのですから尚更でした。
畳が乾いている事も確認してみました。祖母の様子はどうにも不思議です。
お祖母ちゃんどうしたの?
と、聞いても、こうとはっきりした答えを祖母は言わないのでした。
入らないの、奥に行かないの、如何したのと私が繰り返していると、
何だかドキドキとしたような、妙に緊張した顔つきになり、頬も赤く紅潮して来ました。
家に帰ったんだから奥に行こうよ、と私が促すと、遂に癇に堪えかねたように
「そんなに奥に行きたいなら1人で行っておいで。」
と、祖母は突っぱねるように言うので、私は祖母の様子が変だと思いながら、
行ってもよいと言われたんだから奥へ行こうと思います。
お祖母ちゃんは行かないからね、行きたいなら1人でお行き。
そんな言葉の調子も変でしたが、私は奥の庭の様子が気になっていたので、
じゃあ行って見て来るねと玄関から居間、台所へ続く廊下の障子戸へと進んでいきます。
「ちょっと待ちなさい。」
すぐ後ろで祖母の声がして、私は祖母が付いて来ている事に気が付きました。
丁度障子戸の入口に差し掛かる手前でした。
「廊下の方はどうなっている?」
私が障子戸の先の廊下を覗くと、普段と変わりなく板張りの廊下が奥へと延びているのが目に入りました。
廊下には何にもないけど、如何したのお祖母ちゃん?私がそう答えると、
祖母は自分で台所の方を恐る恐る覗いて、廊下に特に変化が無いのでおや、と不思議そうでした。
が、やや安心したようでした。
祖母はそのまま廊下に出ようとする私を引き止めると、仏間の方から縁側に出てごらんと言います。
私は何思う事無く仏間に戻り縁先に出てみます。庭の様子が見れるかしら?
庭を見るには台所からの方がよく見えたのです。
祖母は下の土間を見てごらんと言います。
私は下に視線を落とすとびっくり仰天、事の次第が分かると共にぎょっとしました。
縁側に敷き詰められている板の直ぐ真下、すれすれになる程の高さまで濁り水が静かに満ちていました。
此処の高さは40㎝くらいあったでしょうか。当時の私の足の長さは優にありました。
その不透明な水が余りにも平坦な静けさを湛えていたので、幼い私にさえ酷く不気味に感じられました。
「お祖母ちゃん、玄関に行こう。」
私は祖母の手を取って急いで玄関へと戻ろうとしました。
そうだろうと祖母もしたり顔で同意すると、2人は何かに追われるように急いで仏間から退去し玄関に戻りました。
そのまま急いで敷居から玄関に降り立つと、長靴を履くのももどかしく玄関口に立ち、
目と耳を澄ませて家の中の様子を窺がうのでした。
今にも玄関に続く入口から畳の上に水の先端が顔を出すのではないか、
押し寄せる水で何かしら家の中で起こる変化の音が聞こえて来るのではないかと窺いました。
そうです。玄関口で祖母が窺っていたのは外の様子ではなく、家の中の様子だったのです。
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