その後、母はにこにこ話しながら見知らぬおばさんと共に帰って来ました。
家の傍の交差点で仲良く笑いながらお喋りしています。
祖母と私が呆れて見ているとその視線に気付いたのか、母は漸くその人とさよならして家の方へ帰って来ました。
母と別れた人は、母が向きを変えた途端顔から笑顔が消え、がっくりと沈み込み、
見る影もない様子でよろよろと向こうへ歩いて行きます。
「気の毒に」
沈み込む後ろ姿に同情を禁じえないのは祖母ばかりではありませんでした。
幼い私でさえ、その人がここ迄母に合わせて無理に笑顔で来たのだろうと思いました。
「あんたさん、お早いお着きですねぇ。」
笑顔で祖母がそう言うと、そうでしょうと母は不満げに微笑むと、
面白くてもっと見ていたかったのに皆に帰れと言われて、
しょうがなく帰って来たのだとにこにこ祖母に話し始めました。
母にとって何が面白かったのかは私には分かりませんでしたが、
祖母は笑顔で頻りに母から話を聞いていました。
暫くして、家の縁側を見て来なさいと祖母が母に言っているのが聞こえたので、
私もそうそうと、祖母の言いつけに用心しながら恐る恐る母を縁側まで案内します。
家の様子を隈なく見ながら、特に下の畳の様子ですが、私はおっかなびっくり仏間に入り
、縁側に辿り着くと、
母の方は全く事情を知らないのでにこにこしている気配らしく、
言葉では何々と楽しそうに私に付いて来たのですが、縁にたどり着いて見上げるとその顔は結構仏頂面をしていました。
私にもそれなりに何か気に食わない事があったと察しられました。
祖母との会話のせいなのか、洪水の現場で何かあったのか、そんな事を感じながら母の顔を見上げていると、
「何?何をそんなに恐々して。」
と母は言うので、私は縁の土間を指差して、ほらっと濁り水の来ている事を示します。
母の仏頂面はそのまま変化なく動きも無く暫く時が止まっていました。
「良かった。さっきより少なくなってる。さっきはこの板のすれすれ位まで水が来てたの。」
こう言って私が母の顔を見上げると、母の顔にややほわっとした空気が流れ、仏頂面に微笑みが浮かびました。
「Junちゃん一寸ここにいてね。」
そう言って母はさーっと玄関に戻って行きました。
私は母が水が減ったと祖母に報告しに行ったのだと思い、
安心した祖母と母の2人が縁側に戻って来るのを待ち構えていました。
その間、土間の濁り水の引いて行く様をほっとして嬉しく眺めていました。
ほんの僅かずつですが、水は確かに引いて行っていました。
「Junちゃん、そんな所でいつまでも何してるの。」
何時の間にか祖母が家に入って来て言うので、あ、お祖母ちゃん、お母さんに聞いたでしょう。
水が減ってきているの、よかったね。
そう言うと祖母は半信半疑というような顔で、まだまだ恐る恐るの状態で歩を進めて来ました。
祖母は漸く縁先にまでやって来ました。
「あら。」
先程より嵩が減った水に祖母も少し安堵したようでしたが、その顔に笑顔はまだ浮かべませんでした。
また戻って来る事があるから。そう言うと、祖母はまだ安心できないから玄関に行きましょうと私を促しました。
安心できないのか、何だか面倒なんだな。
私はそんな風に思いました。
洪水という物が幼い私には理解の及ばない物、想像さえできない物だったのです。
玄関には母の姿が無く、祖母の話では父の様子を見に行ったという事でした。
どこへ行ったのか、あっちの方へ走って行ったけど。と祖母が指さした方向は坂道の上、
洪水の方向、父達が行った方向とは違うようです。
お父さんの行った方向はあっちでしょう。私が指さすと、
祖母はそうなんだけどね、お前のお母さんはあっちに行ったんだよ。走ってね。
と、妙な目つきで私の顔を見降ろすのでした。
お前お母さんとどんな話をしたんだい。
そう祖母に言われて、縁の水がさっきより減ったと言ったんだけど、
そうしたらお母さんが私に此処に居てくれと言ったんで、あそこで待っていたんだけど。
特に母に何か言った訳ではないと思うのですが、私にはそれ以上何も言えないのでした。
祖母も黙って玄関前の往来を眺めていましたが、暫くすると漸く父と祖父が返って来ました。
2人ともにこにこと元気そうでした。少なくとも父は何時ものように朗らかでした。
祖母の顔には、2人の無事な姿を見て漸く微笑みが戻りました。
お疲れさまと笑顔になって2人の労を労っていました。
暫く玄関で話をしていた大人3人ですが、縁側の話が出ないので、
私は父に、お父さん縁側が凄い事になっているよと話します。
祖母はあまりいい顔をしませんでしたが、仕様が無い、遂に言う時が来たというように暗い顔をして溜息を吐きました。
JUnちゃん、お父さんを縁側に連れて行ってねと祖母が言うので、
私は喜々として率先して父を縁側に案内します。父はにこにこと私について来ます。
縁側に立った父が何だいと言うので、私もそうでしたが、母も父も最初の視線の先は土間ではなく庭なのでした。
私は得意げに此処此処と指さします。
凄いでしょう。でもさっきより減ったんだよ。さっきはこの板の下すれすれまで水があったの。
そう言うと、また父が何だいと笑うかと思っていましたが、全く真顔で暫くの内に眉間には皺が寄ったのでした。
多分、呆然自失の体だったのでしょう。うむと言ったきり、ここまで水が来ているという事はと、
漸くぽそりと言うと、縁に佇んだまま長い事考え込んでいました。
私は長い間しーんとして動きの無い父を縁側に置いて玄関に戻って来ました。
祖母がお父さんはと言うので、縁で黙ったまま、うむと言って立ったままだから置いて来た。と言うと、
本当に母子で危ない所に家族を置いて来て仕様の無いと、祖母は真顔で私に言うのですが、
どれと自分で父を呼びに行こうと畳に手をかけました。
そうすると、祖父の方で私が行くからと祖母を止め、
お父さんが、気を付けてね、私が行ってもいいんですよ。行かれるんですか、なら気を付けてね。
と、そう祖父に念押しする祖母を玄関に残し、
子供に何でも言わないようにと祖母に一言いうと奥へと立って行きました。
何となく、父を縁に残して来た事がとても悪い事に思えて、私はバツが悪いのです。
祖母とまんじりともせずに余所余所しく玄関で待っていました。
おーい大丈夫だよ、入っておいでと祖父の声が奥からして、祖母と私はいいのかしら、大丈夫だって、と、
玄関から敷居を上がると仏間に入っていきました。
父は肩を落として佇み、祖父はその横で緊張した顔ををしてせっせと父に何か話しているようでした。
所謂、叱咤激励という感じだったのでしょうか。
細々とブツブツ何か分からない事を言う父に、
大丈夫だ、確りしろ
と言う祖父の声だけが仏間に響いていました。
「大丈夫なんですか、お父さん。」
祖母がちょっと父を頼りなそうに眺めて祖父に言うと、祖父は、いやー、一寸ショック状態という物だよ。
と、祖母に笑顔を向けるのでした。
こんな時の祖父はやはり父の父、お父さんのお父さんなんだなぁと私には感じられたものです。
先程も雨の中、2人で洪水の様子を見に行った時にも祖父はひょうとして父の前を行き、
私はその2人の背を見送った時にも感じましたが、
年を取ってはいてもまだ、この頃の祖父には父親としての責任を確りと両肩に担いでいる貫禄がありました。
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