遜った父の姿。私は、彼の子である自分に対して、父がこのように礼を尽くすとは思わなかった。私は怒りに身を震わせてはいたが、父の反応に可なり驚いて唖然とした。色々な思考と身体的な状態の中、私はぼんやりする頭の中で、大声で感情任せに自分の父を怒鳴った己の非を感じ取っていた。が、これで父も私の台所へ来た理由、何故こうも急ぐのかを理解出来た事だろうと一人合点した。私はくるりと父に背を向けて、ぱたぱたと目的の場所へと急いだ。
が、
「まあ、智、それはそれとして…、」
と、思いもよらず背後から私を呼び止める父の声が掛かった。そう急ぐ事もあるまい、少し話をしようというのである。
「お前なぁ…」、父が言い掛けたが、もはや私は怒り心頭に発した状態に達した。私は振り向きざまに、「この馬鹿野郎!」と、父の方へ身を乗りだすようにして怒鳴った。先程の罵声に輪を掛けて、私に取って渾身の、拳を握り締めてあらん限りの大きな声で、怒涛の様な一撃をくり出した。勿論声だけのことだった。
「トイレだって言ってるだろ!。」
私は続けた。「如何いうつもりなんだ!、いい加減にしろ!。」。そう言いだした途端、先程同様、肩を窄めて身を低くした私の父は、俯いて自分の視線を己が足元に伏せると、私の続く言葉に2歩3歩とささっと後退りして行く。そうして彼は平身低頭、
「誠に申し訳ございません。」
と、両手を彼の膝程に迄下げて、私に向かって深々と頭を下げると謝罪したのだった。
私はくらくらとして思考が出来ない状態になった。目の前の頭を下げた父に対して何思う考えも浮かばない。えーっと、と、何だっけと思う。そうだ、トイレだと、私は台所へ来た目的を思いだした。『先ずそれだ、トイレに達するのだ、そこがゴールだ。』。私は日頃のボードゲームを連想した。三角のコマと、四隅の各々の陣地。陣地はトイレだ。そんな事を思い、礼をしている父の黒い頭を自身の目の最後に、私は回れ右をすると、宙に浮く様で覚束ない自分の足を踏み出した。
この時代、トイレは紳士用と婦人用の2ヶ所に分かれ、家の端の場所に並んで設えられている事が多かったようだ。家も一般的な造りであり、私が向かうこちら側、台所に近い右側が紳士用、向かう奥、裏口に近い左側が婦人用トイレであり、婦人用には目隠しの為締め切りに出来る大きな木の扉が付いていた。その為私は先ず紳士用のトイレの前に達した。