終の棲家といえば口にのぼるのは一茶の次の句でしょう。
是がまあついの栖か雪五尺 (栖=すみか)
文化九年(1812)十二月江戸を去りふる里の信州柏原に定住する一茶、
齢は五十歳を越えていました。
この句、はじめは 是がまあ死に所かよ雪五尺 で、この時代ではまさ
に死にに帰って来たふる里でした。 しかしこの地で一茶は初めて結婚し、
五十四歳で我が子を持ち、生活の場を作ったのです。
今日は小父さんのそら豆の種を植える畑づくりを手伝いました。収穫は来
年五月位だそうです。ここに小父さんが終の棲家を何処にするか、決めかね
ている様に思えるところなのです。それは妻が聞いているのは四十九日を息
子さんのいる東北の街でやることになっていて、そこへ行ったらもう帰ってこ
れないのではないか、と言っていたそうです。そして、息子さんのところで暮ら
したら二三年の命だろうとも。
それは奥さんの墓をその地につくったということであり、自分もいずれはとい
うことを決めたということでしょう。そういう状況のなかでは四十九日を機に居
を移すこともあり得ると。
同時に今日も町内会の役員を一緒にやった夫妻が二人づれで来てくれて話
込んでいました。 また畑仕事をしているとその地主の八十八歳の老婦人がやっ
て来て立話をしていきます。
この地にいればこその交流がほとんど毎日あります。そういうなかで来年の
収穫を予定しての畑仕事です、それは近所の男=私が一応手助けになると
判断されたのでしょう。
この間の「在宅医療」の話から「死ぬまで“家で生きたい”」ということへ関心
が広がりました。そういう「家」は孤立してはありえません。それが可能なネット
ワークのなかで存在できます。それはあくまでもネットワークであって個人的
な好意と行為では成り立っていかないでしょう。
短い期間の体験で、なお進行中ですが幾つかの可能性も分かってきました。
町の配食センターも使い、介護保険での支援と私達夫婦の役割、町内会など
との関係等々。同時に息子さんの意見もあります、そこの部分は私達の立場が
関わっていくところでしょう。
計らずも小母さんが亡くなって一気に小父さんとの付き合いが強まったことは
予想以上でした。それによって自分たちの今後を見つめ事柄をすすめることが
できそうです。