kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

「てんがらもん143回」短評。

2014-11-27 23:50:06 | 「てんがらもんラジオ」

  今日の「てんがらもん」については明日もう一度感想を書かせてもら

いますが、今夜中に触れておきたいことがありますので、そのことだけ

先行させます。

    それはこの番組を視聴しながら、信州上田のある婦人のことを思って

いました。彼女も上田で市民劇場の取り組みをすすめているのです。私

より上の年齢ですから、80歳を越えています。でも頭に浮かぶ彼女に

どうしてもおばあさんという声は出てきません。「あの元気なおばさん

は、選挙の真っ只中だろうし、市民劇場の取り組みでも頑張ってるだろ

う」という思いしか出て来ないのです。

 

   村永さんをはじめとして今日の担当者ばかりでなく、津曲さんを先頭に

この番組で拝見する皆さんの元気さ!年齢に比較してとか言う水準を越え

ています。先程の上田の婦人も含めて、それが何処から来ているのか。

    今日のゲストの話の中にも答がありそうです。

    視聴中のメモに「人はパンのみに生きるにあらず」と書いてあります。

観劇運動に夢中になる、宮脇さんの話から浮かんで来たのですが、単に演

劇の鑑賞が趣味ですだけではこういう元気さは出て来ないのでは、と思う

のです。そんなことを頭におきながら感想をまとめたいと思います。


終りから始まる一生。

2014-11-27 22:56:11 | 詩的なつぶやき

    昨日の詩を紹介した 『詩と人生について』 にこんな詩が紹介されていました。 「一生」と題する詩の一番目の節は、

  僕は未(いま)だ年齢(とし)を取らない。でも僕は赤坊(あかんぼう)になってしまった。僕は両親をもって居る。乳母(うば)の唄が輝いて、僕の夢は温(あつ)たかい。

   で始まります。

第七節最後の節は、

   僕はもう年齢を取らない。到頭僕は死んで仕舞った。僕は毎日種々(いろん)な祈祷(いのり)の声を持って居る。この快活な魂が輝いて、僕の灰は温たかい。

    実はこの本を私は終りから頁をめくっていました。ですから、この詩も第七節から読んだのです。そしてこの詩をこんな風に読み終わりました。ただ「取って行く」という意味は言葉通りに解釈しています。

 

       終りから始まる一生

   僕はもう年齢を取らない。到頭僕は死んで仕舞った。僕は毎日種々な祈祷の声を持って居る。この快活な魂が輝いて、僕の灰は温たかい。

   僕はずんずん年齢を取って行く。僕は老人(としより)になって仕舞った。僕は大きい手やら小さい手やらで組まれる大きな環(わ)を持って居る。限りない空が輝いて、僕の全身が温たかい。

   僕はずんずん年齢を取って行く。僕は壮年になって仕舞った。僕は可愛い赤坊の声を持って居る。白い頭布(ずきん)が輝いて、僕の額(ひたい)は温たかい。

   僕はずんずん年齢を取って行く。僕は青年になって仕舞った。僕は一つの手紙を持って居る。愉快な顔が輝いて、僕の心は温たかい。

   僕はずんずん年齢を取って行く、僕は少年になって仕舞った。僕は錫製(すずせい)の犀の玩具(おもちや)を持って居る。印度の砂が輝いて、僕の踵(かかと)が温たかい。

   僕はずんずん年齢を取って行く。僕は子供になって仕舞った。僕は玻瑠(がらす)の笛を持って居る。日は真白(まつしろ)に輝いて、僕の背中が温たかい。

   僕は全部の年齢を取って来た。そして僕は赤坊になって仕舞った。僕は両親を持って居る。乳母の唄が輝いて、僕の夢は温たかい。