昨日、【徳川家康は、真田征伐を決意し、八月八日】と書きましたがいきなり日付だけでは私があとで分からなくなりますので年号が入っている記述を入れておきます。
昌幸と家康の対立は沼田城をめぐるものであったことはドラマに譲るとしてその後、
【 もはや徳川との決戦は不可避となった真田昌幸は、海津城代須田満親を通じて上杉景勝に帰属交渉を持ちかけたのである。その結果、景勝は積年の宿怨を超えて、昌幸の帰属と支援を了承したのである。景勝は、天正十三年七月十五日、真田昌幸に九ヶ条に及ぶ起請文を与え、その帰属を容認した。】
天正十三年は西暦では1585年です、ついでに七月十五日は8月10日になります。分かりやすく書けば、天正十三年七月十五日(1585年8月10日)、真夏の盛りです。
そのはじめの三ヶ条は、
【 一、今度再び上杉方に忠節を尽くすことになった以上は、何か手違いがあったとしても見捨てることはない。
一、敵(徳川・北条氏)が攻めてきたら、そちら(上田・真田)方面はいうに及ばず、沼田・吾妻方面へも援軍を派遣する。
一、今度は何か密謀があるとの噂が立ったとしても、よく調査して関係継続に務める。】
原文は当然古文でしょうがこうして読めるとドラマの景勝と昌幸の顔まで浮かんできてなかなか面白いですね。
起請文ではこのあと海津城代須田満親を通じて真田昌幸に指示がいくこと、沼田をはじめ吾妻・小県郡や坂木庄内の知行安堵、佐久郡、甲州のどこか一郡に上州長野一跡を与えること、更に屋代秀正の跡を与える、と記されています。特に屋代秀正の跡について、史料にもとづき考察を重ね、
【『管窺(かんき)武鑑』『真武内伝』は、屋代領三千貫のうち、千貫文を弁丸(信繁)に与えたとあり、これは恐らく事実であろう。】
【このように、真田弁丸は父昌幸とは別に、上杉景勝より八代旧領を与えられていたと推察できる。このことは、景勝と弁丸が主従関係を結んでいたことを示す。つまり、弁丸は当初は確かに人質として差し出されたのであったが、すぐにそれは主従関係へと、つまり出仕へと切り替えられたのではなかろうか。(略)
かくて弁丸は、上杉家臣として軍勢を引率する一手役(寄親)になったと推定される。この資格で、弁丸は第一次上田合戦に参戦したのであろう。】
ドラマでの信繁の「人質」から「決戦」参戦への動きが理解できます。