葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

信繁 in 大坂 ー拾い読み1ー。

2016-04-11 22:29:19 | 「真田丸」

  「真田丸  大坂編」で全50回中第14回で前中後と分ければ、中編に入り、「地方編」から「中央編」に移り「完結編」の大坂の陣への大きな伏線が引かれました。

   信繁の大坂入りに至るまでの史実を例によって平井さんの『真田信繁』から拾い読みをしておきます。

《 天正十四年六月に上杉景勝が上洛した際、秀吉は景勝と相談し、真田昌幸を家康の与力に編入することを決定していた。秀吉は同じく、木曽義昌・小笠原貞慶も家康の与力大名とすることとした。

 義昌、貞慶は上洛した) そこで秀吉は、昌幸にも上洛を促した。だが昌幸はこれを拒否、ならば人質をとの秀吉の要請も拒否。

   なぜ昌幸は秀吉の要請を拒否続けたのか。沼田領が北条軍の攻撃を受けており上田を留守にできなかったこと、秀吉に沼田・吾妻領を取り上げられると危惧していたと考えられます。沼田領問題で秀吉の安堵の確約と徳川・北条両氏に対する停戦命令がない限り昌幸は上洛できないと考えていたのでしょう。

   秀吉はこれを大いに怒り、昌幸を「表裏比興之者ひょうりひきょうのもの」と指弾して、八月三日、昌幸の庇護者上杉景勝に対し家康に命じて成敗すると報じた。そして真田領に在陣する上杉軍に昌幸の支援をさせぬようにと言い渡したのである。

   八月六日、秀吉は家康に真田昌幸成敗を命じた。史料でみる限り、秀吉は本気で真田昌幸を潰すつもりだったらしい。危機感を覚えた昌幸は上杉景勝に秀吉への取りなしを必死に依頼した。恐らく景勝の取り成しが奏功したのであろう、八月七日真田成敗の意向を覆し家康に真田昌幸との問題の仲裁をすると伝え、家康も真田討伐を中止した。

   秀吉が真田成敗を中止した理由は、①秀吉は、真田問題を利用して家康との信頼関係を構築し、家康に上洛を促した、②真田討伐を家康に実行させれば、東国における徳川・北条氏の力が増し、軍事バランスが狂う、③真田を対徳川、北条の緩衝地帯とすることの方が政治的・軍事的にメリットが大きい、④真田昌幸を従属下に置く上杉景勝の説得工作の成果、⑤景勝の面子を考慮した秀吉の配慮、などが考えられるであろう。》

  このあと「豊臣政権下の真田信繁」となります。その「真田昌幸上洛す」以降はこの次にします。

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