葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

鉄火起請のこと。

2016-04-05 15:08:18 | 「真田丸」

「真田丸」第12回「人質」に鉄火起請の場面が出てきます。NHKの関連HPに解説されています、これです。鉄火起請 前編     鉄火起請 後編

   今回は平山さんの本ではありませんが、『日本社会の歴史  上』(大月書店刊)にこれに関する記載がありましたので記録しておきます。

  【1607(慶長一二)年、伊勢国(三重県)津藩領の一志郡中村・大鳥村と一色村との間で、山争いの決着をつけるために「鉄火取り」がおこなわれることになった。真っ赤に焼けた鉄棒を、争いあう村を代表する者が素手でつかんで、「三宝さんぽう」(台)の上に乗せることを競うもので、神意を占う真偽判定の法である。

   中村・大鳥村の鉄火の取り手は平七、一色村の取り手は庄屋の稲垣源兵衛に決まった。鉄火は、源兵衛が取り勝った。その結果、一色村優位に境界が認められた。こうした鉄火取りは、各地の事例が知られている。負けても勝っても、やけどによる身体の損傷はまぬがれず、この方法にも、村と村との「暴力」発動がみてとれる。

   だが、この鉄火取りは、同じ「暴力」発動のようにみえても、武器使用とは違う。というのは、中村・大鳥村と一色村との争いは、主張の折り合いがつかず、津藩に「公事くじ」(訴訟)が起こされ、領主が決着の方法として、鉄火取りを指示した。この方法が選ばれたのは、それが郷村の伝統に根ざした方法で、気持ちの高ぶった村側からの主張もあったためだろう。しかし鉄火取りは、神意をうかがうとはいえ、決闘に近い。

   この現場には、「御検使」が立ち会って、勝敗を見届けている。鉄火取りが村の自力決裁(お上に頼らず村が裁いて罰する)だとすれば、藩役人は領主として判定を見届ける立場にある。ここでは鉄火取りの結果で決めさせているが、藩役人が立ち会うことでしだいに領主支配の制度や法令(法度はっと)によって裁判するという方向が見える。無事(太平)の時代の民衆は、自力決裁の力を放棄していくが、代わりに現れたのは、たんに武力で押さえつける支配ではなく、「公儀御法度」(幕府の法令)を基準にした、訴訟と法制による取り調べを取り入れた支配であった。

   村社会も、直面する紛争については危険な解決方法を選んでも、人的な犠牲をともなう方式からの脱却を望んだであろう。ただ、1619(元和げんな)年会津藩領(福島県)の鉄火取りでは、耐えかねて鉄火を落として負けた松尾村代表の清左衛門は、制裁として首胴手足を切り離され別々に埋められたという記録が残されている。こうしたことをへて、民衆は、自力決裁による紛争の解決が過酷な「暴力」の手段をともなうため、それから解放された社会を待望したのである。】

  この文に関して少し説明が必要でしょう。これは『日本社会の歴史』のうち「近世」の最初の部分です。その章は「下剋上の乱世から惣無事の世へ変わった」、〈郷村の「暴力」の封じ込めへ〉という節にあります。

「郷村の暴力」とは戦国時代各大名が権力の奪い合いに力を取られ、社会の治安という公的な働きが機能しなくなってきたため各郷村では自力で紛争を解決するようになったことです。それは各村の相互が「暴力」の発動によって行われたのです。

1609(慶長一四)年、二代将軍秀忠が出した「覚」には、

【郷中にて、百姓ら、山問答・水問答(山林の持分や水利権をめぐる争い)につき、弓・鑓やり・鉄砲にて、互いに喧嘩いたし候者あらば、その一郷、成敗いたすべきこと。】とあります。

  武士社会は「一所懸命」でした、同時に百姓にとっても生産地を守るために「一所懸命」だったのです。  

コメント (4)
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