kaeruのつぶやき

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「第一次上田合戦」拾い読み ー1ー

2016-04-03 23:19:22 | 「真田丸」

「真田丸」、今夜は第13回「決戦」で第一次上田合戦。60数年前上田にいる頃はこの合戦のことばかりか、かの有名な秀忠軍を撃退した第二次上田合戦も頭にありませんでした。高校の応援歌に「関八州の精鋭を ここに挫きし英雄の」と歌われていたその範囲のこととしての記憶でした。

   今回のドラマを機に物語としてではなく、出来るだけ史実としての「真田」と上田城を知ろうと思います。幸いドラマも大筋史実を重んじているとのことですのでテレビを楽しみながら平山優さんの『真田信繁』を主なテキストにしてメモしていこうと思います。

【 昌幸が離反したことを知った徳川家康は、真田征伐を決意し、八月八日に甲斐国甲府に在番していた平岩親吉(ちかよし)に甲斐の武士を動員するよう命じ、信濃小諸にいた大久保忠世(ただよ)の指図のもと、ただちに出陣するよう指示した。

   徳川家康は、八月二十日に、伊那衆小笠原・松岡・下条らに小県郡への出演を命じ、大久保忠世、平岩親吉、鳥居元忠らと合流させ、真田昌幸打倒に向けて万全の態勢を整えた。

   甲斐・信濃衆混成の徳川軍は、八月二十六日に小県郡禰津に進出した。これには佐久郡・諏方郡の諸士も参加しており、(略)三河衆と、駿河衆……総数七千人余を数えたとされる。対する真田昌幸軍は、騎馬二百余騎、雑兵千五百余人を始めとする総数二千人余に過ぎなかったと伝わる。

   徳川軍が、八月二十六日には禰津に着陣すると、昌幸はただちに、徳川軍襲来の情報と援軍の派遣を海津城代須田満親に要請した。ところが、須田満親は思わぬ困難に直面していた。真田を支援したくとも、北信濃衆の上杉方国衆が極めて手薄であり、徳川に対抗するには兵力が不足していたのである。

(略)

   この事態を景勝も重視しており、八月二十六日に、同じく北信濃の本領に残留していた市河信房・~らに対し、須田満親より要請があり次第、ただちにこれを支援するよう命じた。ところがこの時、景勝は市河ら北信濃衆に対し「各十五以前六十以後被申付」との動員を指示している。これは十五歳以前の子供と、六十歳以上の老人をかき集めて軍勢に仕立て上げ、真田を支援するよう命じたものである。それほど北信濃の上杉方は兵力が払底していたのであり、事態は極めて深刻であったというよう。】