葉山の四季

葉山の四季をお伝えしたいと思います。

信繁 in 大坂 ー拾い読み 2ー

2016-04-12 23:13:18 | 「真田丸」

   昨日の続きです。説明はすべて平山優さんの『真田信繁』に拠りますが「拾い読み」ですので関連部分を全文写してはいません。ただし書かれていないことはつぶやいてはいません。

【 天正十四年(1586)十月、徳川家康が遂に上洛を果たし、大坂城で秀吉と対面し臣従の礼を取り、秀吉政権に従属することになった。

  天正十五年一月四日、秀吉は上杉景勝に書状を送り、真田昌幸の赦免を正式に通達、昌幸に上洛をさせるよう指示した。昌幸は上洛し秀吉に謁見し、秀吉は昌幸に対して家康の与力大名となるよう命じた。
   三月十八日、昌幸は帰路駿府城に入り家康に出仕した。ここに昌幸は、上田・真田領と沼田・吾妻領を安堵され、豊臣大名として認定されることになった。武田氏滅亡から五年、遂に昌幸は大名となり、自立を果たした。

  『長國寺殿御事蹟稿』によれば、上洛の時、昌幸は息子信幸・信繁を伴っていたという。これは確実な記録では確認できないが、事実の可能性が高い。この時、信幸は父昌幸とともに帰国したが、信繁はそのまま上方に人質として留め置かれたのではなかろうか。

   信繁の人質生活がいつからはじまったか、諸書によってまちまちで天正十三年、十七年などあるが、いずれも事実ではなかろう。まだ決め手に欠けるが、信繁が秀吉の人質となったのは、天正十五年の昌幸上洛の時と考えておきたい。
   上杉景勝の人質であった信繁を、昌幸が秘かに取り返し、勝手に秀吉のもとへ送ったため、景勝が怒ったとの説があるが、事実ではない。すでに秀吉と景勝は、昌幸を家康の与力大名にすること、すなわち真田氏の上杉氏従属は解消されることになっていたのであり、昌幸上洛とその帰途の家康への出仕によって、真田氏は上杉氏から独立したといえるからである。
   信繁はこの前後に、元服したと考えられる。仮名は源次郎、信繁の諱いみなは、武田信玄の実弟天廐てんきゅう信繁に由来するという。

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参議院選の先へ……。

2016-04-12 20:58:29 | せいじの政治カフェ

  10日の「神奈川新聞」です。「もし野党一本化で戦わば」の試算がでていました。前回の衆議院選では53議席であったものが113議席に、といいます。比例代表の議席を加えれば与党の3分の2は困難になるとしています。  

   10日には日本共産党の中央委員会総会が開かれて、参議院選に臨む方針が論議され意思統一がはかられました。注目される参議院の一人区での野党統一候補の実現状況は、志位委員長の報告によると32選挙区中12選挙区で候補者が決まって、なお十数選挙区で協議がすすめられているとのことです。その12選挙区は青森、宮城、栃木、山梨、長野、鳥取・島根、山口、徳島・高知、熊本、長崎、宮崎、沖縄です。

  この共同にあたって野党で確認されたことは、

1、安保法制の廃止と集団的自衛権行使容認の閣議決定撤回を共通の目標とする。

2、安倍政権の打倒をめざす。

3、国政選挙で現与党およびその補完勢力を少数に追い込む。

4、国会における対応や国政選挙などあらゆる場面でできる限りの協力を行う。

以上です。

   それを受けての衆議院選小選挙区での協力協議については、日本共産党、旧維新の党、社民党、生活の党の4党では一致が確認されているが、民進党は「協議に入れない」との態度だと報告されました。  

   今回の野党共闘は、戦争法に反対しその廃止を求める国民的運動の高まりをうけて実現されたもので、日本の歴史のなかでもはじめての取り組みです。ですから野党共闘にとどまらず、野党+市民連合という陣営です。志位さんの記者会見でも話されていましたが、参議院選での候補者の選定過程で次の段階ー衆議院小選挙区に向けても話が交わされているとのことです。

   参議院選挙に向けての戦いの前進の中で、野党は共闘を!という声はさらに高まるでしょう。 

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