昨日の続きです。説明はすべて平山優さんの『真田信繁』に拠りますが「拾い読み」ですので関連部分を全文写してはいません。ただし書かれていないことはつぶやいてはいません。
【 天正十四年(1586)十月、徳川家康が遂に上洛を果たし、大坂城で秀吉と対面し臣従の礼を取り、秀吉政権に従属することになった。
天正十五年一月四日、秀吉は上杉景勝に書状を送り、真田昌幸の赦免を正式に通達、昌幸に上洛をさせるよう指示した。昌幸は上洛し秀吉に謁見し、秀吉は昌幸に対して家康の与力大名となるよう命じた。
三月十八日、昌幸は帰路駿府城に入り家康に出仕した。ここに昌幸は、上田・真田領と沼田・吾妻領を安堵され、豊臣大名として認定されることになった。武田氏滅亡から五年、遂に昌幸は大名となり、自立を果たした。
『長國寺殿御事蹟稿』によれば、上洛の時、昌幸は息子信幸・信繁を伴っていたという。これは確実な記録では確認できないが、事実の可能性が高い。この時、信幸は父昌幸とともに帰国したが、信繁はそのまま上方に人質として留め置かれたのではなかろうか。
信繁の人質生活がいつからはじまったか、諸書によってまちまちで天正十三年、十七年などあるが、いずれも事実ではなかろう。まだ決め手に欠けるが、信繁が秀吉の人質となったのは、天正十五年の昌幸上洛の時と考えておきたい。
上杉景勝の人質であった信繁を、昌幸が秘かに取り返し、勝手に秀吉のもとへ送ったため、景勝が怒ったとの説があるが、事実ではない。すでに秀吉と景勝は、昌幸を家康の与力大名にすること、すなわち真田氏の上杉氏従属は解消されることになっていたのであり、昌幸上洛とその帰途の家康への出仕によって、真田氏は上杉氏から独立したといえるからである。
信繁はこの前後に、元服したと考えられる。仮名は源次郎、信繁の諱いみなは、武田信玄の実弟天廐てんきゅう信繁に由来するという。