(その2)で慰霊碑は初めここに建立されたのではなく「砲台跡の入り口でした」と書きましたが、それがこれです。
右側の写真を拡大すると、
更に入り口部分を拡大したのを見ますと、地蔵と数本の卒塔婆風のものと何か記された柱が見られます。
ここ(緯度経度が記されている写真の右側の場所)から現在の場所(🔴印・市有地)へ、「いつ誰が慰霊碑を移したか」分からないそうです。
市有地への石造物が移設された記録は公有地管理上あって当然のことだと思いますが……。
『砲台に消えた子どもたち』を書かれた野村昇司さんが生前こう言われました。
「誰も語らなければ歴史の中で『なかったこと』になってしまう。戦争や平和のあり方が議論されている今、もう一度戦争の爪痕を見つめなおしてほしい」 (この「タウンニュース」をご覧下さい)
20日慰霊碑に向けて手をあわせながら私は、黒田先生と野村さんの思いを胸に浮かべました。私どもも「語りはじめ」たのですが、このネット時代誰かとなくここを訪れて「語りかけていかれた人々」を知ることができるのは心強いことです。
そのひとりの方のブログです、「逗子の歴史を学ぶ会事務局長」の山田淑江さんがコメントを寄せています。
もう一人、東京湾要塞研究家のデビット佐藤さんです、こちらは砲台に関する状況が見られます、クリックしてみて下さい。