ベルガモのアカデミア・カッラーラで「Cecco del Caravaggio(チェッコ・デル・カラヴァッジョ)」展が開催中(1月28日~6月4日)である。(ボローニャのFさん情報に感謝!!)
https://www.lacarrara.it/mostra/cecco-del-caravaggio/
https://www.youtube.com/watch?v=ur-yssojY2g
「アカデミア・カッラーラ」(ベルガモ)
チェッコ・デル・カラヴァッジョ(Cecco del Caravaggio, 本名:Francesco Boneri, 1580-1630)はカラヴァッジョの弟子?(愛人説も💦)であり、彼自身もカラヴァッジョ風の作品を多く描いている。カラヴァッジェスキとして興味深い画家であり、私的にも観たい展覧会なのだが...。
今回の展覧会はチェッコの画業に焦点を当てた初めての展覧会であり、カラヴァッジョ(2点)を含め、インスピレーションを得た画家たち、チェッコが影響を与えた画家たち、この両方の画家たち作品も併せて展示しているようだ。
あらためてチェッコに注目すると、ロンバルディア(ベルガモ周辺)出身ということは、カラヴァッジョとほぼ同郷ということであり、弟子として身近に置いたのも了解できる。
ちなみに、チェッコがモデルとされている作品の一つは...
カラヴァッジョ《勝ち誇るアモル》(1602-03年)ベルリン国立絵画館
この件ですが、、
石鍋先生がいわれたとしたら、むしろ作品に対する配慮だとおもいます。ヒエロニムス・ボスの伝承作品なんか、20世紀末~21世紀の間にがんがん「追随者の作品」「工房作品」に叩き落とされていて, 新たな画家名を捜す努力があるともおもえません。Pauls Wignantとか、Hieronymous van Aken2世とか、 Jan Mydinとか , Pieter Huysとか、候補はいるでしょうにね。
レンブラント・プロジェクトで落選したベルリンの「黄金兜の男」は、その後再アトリビュートされているんでしょうか? 1956年のベルリン絵画館図録では代表作の一つだったのにね。
有名画家の名前がはずれると、いかに優れた作品でも軽視されがちになってしまうので、ANONYMOUS やMaster of XXやFollower of XX
ではなくて、別の画家名をつけたいというのも、もっともだと思います。ルーブルのラファエロ「青いターバンの聖母」は画家名が変わりましたがやはり美しい作品ですし、やはりルーブルの伝ラファエロ「伝アラゴンのイザベラ」も、とても魅力的な作品だと思います。
しかし、伝承作品で疑問作になったものへの軽視は、あんまりではないかと思うところがしばしばありますので、そういう損害を避ける意図があるのではないかと思っています。
ロヒールのミラフローレス祭壇画のようにコピーが真跡になり真跡がコピーに転落したという例もありますしね。
>美術史研究ではその画家の作品でないとしたら、誰の作品であるのかが言えないといけない
なんと!帰属問題は想像以上に難しいものなのですね。私など美術ド素人なので、「?」かも、なんて勝手に言えますが、研究者に求められる厳しさに驚きました(;'∀')
<所蔵美術館の帰属表記は「希望」も含まれる
そのとおりですね。ですから、芸術新潮2016年記事の当時もその前も、現在も、美術館側としてはこの3点の絵を全て真筆として扱っていて、記事の「カラヴァッジョとカラヴァッジョ派」は誤解によるものと考えています。
<ウィーンのダヴィデは未だ「?」のままです(汗)。
石鍋氏の評価が変わったとしても、私もこの絵は「?」です。ただ、それならばどの部分が「?」で、それは後世の補修によるのか、当初から他の画家の手によるのか、といったことに答えが出ないと疑問は解決しないと思います(石鍋氏は一般論として、美術史研究ではその画家の作品でないとしたら、誰の作品であるのかが言えないといけない、と言われています)。いずれにしても、将来またウィーンに行く機会があったら、是非この絵を見たいと思っています。
1/7の日経新聞のボッティチェリに関する記事へのコメント投稿で、バルディ家祭壇画からサヴォナローラの影響を読み取るような記事が書かれていたことに対して、この記事を書いた記者は「サヴォナローラが1482年にフィレンツェに招かれてから処刑の1498年までずっとフィレンツェにいて、最初から過激な説教をしていて市民に影響を与えていた、と思い込んでいるのではないか。記事を書いた記者が詳しい調査をしないで、概説書や展覧会図録のようなものを使って書いたためだろう。」というコメントを書きました。この件以来、新聞記事だけではなく、(専門誌ではない)芸術新潮などの美術雑誌の記事も内容に疑問を感じるようなものは、真偽について疑ってかかった方がいいのではないか、と思うようになりました。
まぁ、研究者の先生たちとは違い、美術ド素人の私的にはウィーンのダヴィデは未だ「?」のままです(汗)。所蔵美術館の帰属表記は「希望」も含まれることがあるので、ド素人的には「?」のままでも良いかなぁ、と勝手に思っています(^^;;
私の結論は、 この記事を書いた芸術新潮の記者が誤解して「カラヴァッジョとカラヴァッジョ派」と書いた です。
ウィーン美術史美術館のホームページから、カラヴァッジョの「ゴリアテの首を持つダヴィデ」のページ(下記URLの一つ目)を開くと、
https://www.khm.jp/objektdb/detail/426/?offset=10&lv=list
https://www.khm.jp/objektdb/?query=Caravaggio+und+caravaggeske+Malerei&no_cache=1&id=11227
(jpをatに)
OBJEKTDATENの項目KULTURにはCaravaggio und caravaggeske Malereiとあり、KÜNSTLER(芸術家)にはMichelangelo Merisi, gen. Caravaggio(カラヴァッジョと呼ばれるミケランジェロ・メリージ)とあります。
KULTURは独和辞書では文化、教養、開発、栽培ですが、ここではKULTURは分類のような意味で使っていると思います。大分類がバロック美術、中分類がローマバロック、小分類がカラヴァッジョとカラヴァッジェスキ といった感じで、その小分類のような意味でKULTURという語を使っているのではないでしょうか。
Caravaggio und caravaggeske Malereiのページ(上記URLの二つ目)を開くと、30数点の「カラヴァッジョとカラヴァッジョ派」の絵が出てきますが、KÜNSTLERをカラヴァッジョとしているのは、ゴリアテの首を持つダヴィデ、ロザリオの聖母、茨の冠の3点だけです。
芸術新潮2016年11月号の「カラヴァッジョとカラヴァッジョ派」という記載は、芸術新潮の記者がこのホームページ(またはパンフレット等)を見て、KULTURの部分を画家と思って書いてしまったということではないでしょうか。上記7/9のコメントでは石鍋氏が2016年の著書から2022年の著書でウィーンのダヴィデを「確実とはいえない」から「真筆と考えられる作品」に変更していると書きました。そして、2016年の修復で何か新しい発見があったのかもしれないと考えたのですが、事実関係としては、この修復で真贋についての情報は特に何も得られていなくて、美術館側は従来通りこの絵を真筆と考えている、石鍋氏が評価を上げたのはロザリオの聖母の制作年に関する研究の進展からこの絵の評価を高くした、芸術新潮の記者は誤解して記事を書いた(花耀亭さんはそれに過剰反応をされた?)ということではないでしょうか。
芸術新潮は宮下氏や石鍋氏などの専門家が話した内容をそのまま書いている場合はいいのですが、記者が執筆した場合は美術史の専門家ではないので、こういった誤りや誤解が時々あるように思います。例えば、2004年にペルージアで開催されたペルジーノ展の紹介記事(2004年6月号)の表題に「初の大回顧展に見る強欲画家ペルジーノの優美」、本文中に「大量の注文をさばくため、商魂たくましいペルジーノは~」とあります。同じ構図の絵が多く描かれてフィレンツェ市民に飽きられたのは事実ですが、これはヴァザーリの美術家列伝ペルジーノ伝に書かれたことをそのまま使っていて、強欲がどこまで真実かは疑問があります。一方で、とても有意義な記事が書かれていることもあり、私が特に評価しているのは1969年12月号の真贋72「ボッティチェルリ騒動の一ヵ月」で、丸紅シモネッタの来日時の真贋騒動を詳しく取材した記事です。この件でこれ以上詳しいものはありません。昨年の丸紅ギャラリーで開催されたシモネッタ展の図録と合わせて読むと事実関係がよく分ります。芸術新潮は玉石混淆だという気がするので、今後も芸術新潮の記事を読む時には、この辺を注意していこうと思っています。
>ArteDossier本誌の方には他の美術雑誌と同様にルネサンスやバロック美術に関する論文も掲載されているのでしょうか?
残念ながら、実は私も本誌自体は見たことがないのですよ。バックナンバーの表紙を見ると、多分論文も掲載されているような気がしますが...??。日本の図書館に無いのは、英語ではなくイタリア語だからでしょうかね??
>後からそれを覆すような新発見があるのは仕方がないことです。
本当にそう思います。それに、研究者は特に新発見や新説で、今までの通説を覆すことが喜び(目的?)のようですし(^^;
今回も勉強になりました。ありがとうございました!!私も(ド素人ですが)「直観より観察が大事」で作品を観たいと思いましたです。
ついでながら、Burlington Magazineの最新号をインターネットで見てみると、ウルバヌス8世とバルベリーニ家 のタイトルで、今年が即位400年記念であることやカラヴァッジョが描いたマッフェオ・バルベリーニの肖像画(西美カラヴァッジョ展出品作の方)が出ていて、本文にはウフィツィのイサクの犠牲を入手したことも書かれています。ご参考まで。
https://www.burlington.org.jp/archive/article/urban-viii-and-the-barberini
(ukをjpに置き換えているのでukに戻してご覧ください。)
前コメントで運慶の銘文が出た仏像について、その発見以前に研究者の判断が間違っていたことを書きましたが、この件は美術史研究にとって重要な示唆を含んでいると思うので少し追加します。この発見の年はもう一つ、奈良で運慶仏に関する新発見があった年で、このようなことは昭和30年代に神奈川・静岡で運慶仏の発見があってから約50年ぶりのことであり、記念のシンポジウムが開催され、東京周辺の彫刻史研究者の主要メンバーはほとんど全員参加しています。そして、その時に結果的に誤った論文を書いた研究者の人も発言を求められ「今回の像内文書の出現で反省させられたのは、彫刻史における作風論というのは説得力があるようでないものだなと自嘲を込めて、自分の直観の甘さというものを、忸怩たる思いで見ております。」と述べています。
私はこの研究者が誤った判定をしたのは、状況からみて仕方がないことであり、どんな優れた研究者でも同じような判断になるだろうと少し同情的に見ています。まず、像自体がかなり破損した状態であり、表面も長年の護摩や線香による煙・煤で黒くなっていて当初の彩色や切金文様がよく見えないこと、そしてこの像が伝わった寺が西大寺系の律宗寺院なので、善円系統の仏師が関係しているだろうと思うのは当然だという事情があります。それでもやはりご自身で「直観の甘さ」と言っているので、専門家でも最後には直観なのかと思います。先のコメントで書いた「鑑定には直観より観察が大事」とする本(鑑定学への招待)を先週大型書店の店頭で手に取って確認しましたが、これもそのうち読もうと思っています。上記の発言にある「彫刻史における作風論」というのはルネサンス・バロック絵画でも同じことであり、どのような研究者であっても「現在までに蓄積された知識」の上に立って自分の考えを組み立てるのだから、後からそれを覆すような新発見があるのは仕方がないことです。そのようなことを頭に置いた上で研究者の書いたものを読むつもりです。
「Art e Dosseier」は毎月発行の美術雑誌で、本誌の他に付録として小冊子が付きます。この付録小冊子は特集として<Artisti>と<TemieMovimenti>が有り、「Cecco del Caravaggio(408)」は「Art e Dosseier(4月号)」の付録冊子であり(内容はパーピが執筆)、分類としては<Artisti>に入っています。「Caravaggeschi(109)」は<Temi e Movimenti>に分類されていますが、もちろん「Botticelli(49)」は<Artisti>です。
GIUNTIはフィレンツェの出版社なので、ウフィッツィで付録小冊子が独立して販売されているのも了解できます。カラー刷りでコンパクトに纏められているし、執筆陣も専門家揃いですしね。
>私は美術鑑賞が趣味というよりも、最近は美術史趣味というようになってきました。
美術の楽しみ方は人それぞれだと思いますし、むろさんさんの楽しみ方もなるほどです(^^)。むろさんさんの美術史趣味のおすそ分けで色々勉強させていただいておりますし(^^ゞ
で、私はやはり美術鑑賞が好きで、実物こそ第一級資料だと思っています。作品への興味から色々調べて行くうちに寄り道して迷い子になってしまいがちですがね(^^;
さすがですね。カラヴァッジョだけでなく、カラヴァッジェスキへのご関心も年季が入ってますね。
>芸術新潮2016年11月号の「カラヴァッジョとカラヴァッジョ派」表記
この時に私が書いたコメント投稿をあらためて読んでみると、7年前から全く進歩していないのが恥ずかしく思えます(笑)。
この「カラヴァッジョ派」という表記は全く気にしていませんでした。2016年の修復で何が分かったのか知りたいところです。しかし、石鍋氏の7年前の本「カラヴァッジョ伝記集」図50ではこの絵について「確実とはいえないが」と書かれていましたが、同氏の昨年の著書では「真筆と考えられる作品」に含まれていて(P579のNo.29)、逆の判定をしているようです。私もこのウィーン作品は少し異質だと感じるし、年代判定も難しい。また、ボルゲーゼ作品のダヴィデと同一人物かどうか疑問なので、チェッコ=モデル説には従えない。ということで、ますます実物が見たくなりました。
>パーピが「ArteDossier」の付録でチェッコがモデルとしているのは以下の7点
2016年西美カラヴァッジョ展図録のパーピ著「カラヴァッジョと肖像画」に挙げられている7点と同じですね。
ついでに「ArteDossier」のことがよく分からないのでお聞きしたいのですが、私が持っているGIUNTI社のArt Dossierシリーズは、フィリッポ・リッピ、フィリッピーノ・リッピ、ギルランダイオ、ペルジーノ、シモーネ・マルティーニの5冊で、どれも50ページの薄い本です(ウフィツィの売店他で購入)。「パーピの付録」と書かれていますが、同じシリーズだとしたら(この薄さで)付録がつくような本とは思えないので別のシリーズでしょうか。巻末のTemi e movimentiのシリーズには109 CARAVAGGISTI(A.モアール他著)というのが出ていますが、これとも違いますね?
作品の制作年のこと
私は美術鑑賞が趣味というよりも、最近は美術史趣味というようになってきました。西洋美術でも日本美術でも、作品について知りたいことは、「いつ・誰が作ったか」がまず第一で、次に「制作事情は何か(目的、注文者、絵や彫刻の意味など)」です。といっても、制作年については、細かい年月日にこだわる場合とおおまかな時期でよい場合があると思っています。前コメントで今運慶の息子湛慶の作品について調べていると書きましたが、この件でも三井寺と高知県にある2つの作品について研究者の考える年代設定の妥当性からスタートして、その年代を認めた上でいろいろ考えたら、その間の期間に運慶の死去と承久の乱という出来事があり、湛慶は父の作風から脱却して自己の様式を作り上げたこと、承久の乱で鎌倉幕府側が後鳥羽上皇側の領地を没収し、幕府側の御家人に配分したので、慶派仏師を重用していた御家人が造寺造仏を行う際に慶派仏師を使い、そのために西日本各地に湛慶風の作品が多く残されるようになった、ということに行き当たりました。これも2作品の年代にこだわって考えた成果だと思っています。
カラヴァッジョの作品の年代に戻ると、ボルゲーゼのダヴィデとゴリアテについては恩赦への期待で描かれた絵と思うので、1609~10年は外せないし、パーピが言う1606年はローマにいた時期(殺人の前)なので認められない。一方、プラドやウィーンのダヴィデの制作年代は数年の幅で考えてもいい、聖マタイの召命・殉教の前か後かぐらいの判定ができればいいと思っています。それにしてもウィーンのダヴィデの制作年代は難しいですね。
なお、研究者にとっても年代判定が難しい問題であることは、聖マタイの一連の作品の制作順序の件(石鍋氏が「ありがとうジヨット」に掲載)やリュート弾きの別ヴァージョンをカラヴァッジョが後になって注文により描いたこと(過去の絵を再現できる)などの例からもよく分ります。日本美術でも今では運慶作と判明した横浜市の仏像について、ある研究者が作風や文様の類似から鎌倉時代中期頃の仏師善円系統の作品という論文を発表したら、そのすぐ後に解体修理されて運慶作の銘が発見されたという例がありました。
>(目黒の聖ラウレンティス)花耀亭さんはこの絵のことを覚えていますか?
はい、覚えています。深赤の衣装が印象的でした。しかし、当時は他カラヴァッジェスキと同列で観ていたので、カラヴァッジョとの関係については注目していませんでした(汗)。
>なぜ芸術新潮では1606年までとして、ウィーンの絵を除外したのか
除外したのは、もしかして2016年11月号の「カラヴァッジョとカラヴァッジョ派」表記に関連している可能性があるかもしれませんね(?)。
https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/231f60ee2143c9b89f29a3be0611b461
この中でも書いたように、私的にウィーン作品は異質だと感じています(汗)。それに、チェッコがモデルとも思えず… 基底材がポプラ材と言うのも、やはりなぁ、という美術ド素人見解です(^^;
ちなみに、パーピが「ArteDossier」の付録でチェッコがモデルとしているのは以下の7点です。ウィーン作品を除けば、あり得るリストかもです。
・《勝ち誇るアモル》(1601年頃)ベルリン国立絵画館
・《聖マタイの殉教》(1599-1600年)コンタレッリ礼拝堂(逃げる少年)
・《洗礼者聖ヨハネ》(1602年)カピトリーニ美術館
・《イサクの犠牲》(1600—1601年頃)ウフィッツィ美術館(イサク)
・《サウロの回心》(1600-1601年頃)オデスカルキ・コレクション(天使)
・《ゴリアテの首を持つダヴィデ》(1605-1606年)ウィーン美術史美術館
・《ゴリアテの首を持つダヴィデ》(1606年)ボルゲーゼ美術館
で、作品の制作年ですが、裏付ける記録資料が無い場合は、やはり石鍋先生を含め研究者により見解が異なるのは仕方がないように思えます。(記録資料絶対重視は疑問ではありますが)。カラヴァッジョの場合は特に作品の出来にムラがありますしね。私的には制作年は新資料の発見により変わる可能性があるので、あまり拘っていません(研究者は重要問題でしょうけど(^^;)。
ちなみに「ArteDossier」付録で紹介されているチェッコ作品はなかなかに興味深かったです。例えばワルシャワの《聖セバスチアヌス》やプラド作品など...。(jpをesに)
https://www.museodelprado.jp/coleccion/artista/cecco-de-caravaggio-francesco-buoneri/5c34e85d-38d2-469f-92cc-d041b9efb9fe
>「美術史と美術理論-西洋十七世紀絵画の見方-改訂版」
参考書のご紹介、ありがとうございます!!私も図書館で探して読んでみたいと思います。
今回も色々と勉強になりました。ありがとうございました!!
石鍋氏がウィーンのダヴィデを1600~01年としたことの理由を前コメントで推定しましたが、石鍋氏の新刊に書かれているのは、カラヴァッジョの板絵は聖パウロの回心第一作とウィーンのダヴィデの2枚しか残っていないことであり、このこととロンギがウィーンのダヴィデとロザリオの聖母が同じ頃としたこと及びロザリオの聖母の最近の研究動向から、石鍋氏はウィーンのダヴィデに早い時期の年代を与えたのだと思います。聖パウロの回心第一作は注文者の意向でサイプレス(糸杉)材を使ったことが契約書により分るということなので問題ないのですが、ウィーンのダヴィデについてもカラヴァッジョが自分の意志でポプラ材の板を使うことは考えにくいので注文者の意向だと思います。多くの研究者が考える1607年というローマからの逃亡直後では、板絵という実験的なことを行う余裕はないと思いますが、ナポリでの注文者の意向ならそれも可能性はあるだろうから、このことで1607年説を否定することはできないでしょう。プラド美術館のダヴィデとゴリアテ、ウィーンのダヴィデ、ボルゲーゼのダヴィデの3枚を並べてみると、プラド→ウィーン→ボルゲーゼの順に描かれたと思うのですが、ウィーンの絵が板絵だからという理由で聖パウロの回心第一作と同じ時期とするのは(様式・作風からも)無理があると思うし、一方、板絵であるためにローマからの逃亡直後というのも考えにくいと感じるので、私にはプラドとボルゲーゼの絵の中間である1604~5年前後という気がします。この時期とした場合、ダヴィデのモデルは年令の関係からチェッコではないと考えます(パーピはチェッコにこだわるから1607年としている?)。
また、ウィーンのダヴィデは2016年に修復されているので、何か新しい情報があり、それによって石鍋氏は早い年代にしたのかもしれません。私がウィーンに行ったのがちょうどこの年であり、ダヴィデは展示されていなかったという苦い思い出があります。芸術新潮2016年11月号(クラーナハ特集)にその時の修復家が日本製のノコギリを持ってこのダヴィデの絵の前に立っている写真が出ています。私はウィーンのダヴィデを見ていないので、将来またウィーンに行く機会があれば、実物を見てから再度考えたいと思っています。
プラドのダヴィデについてはX線写真で明らかになった描き直し前のゴリアテの表情(石鍋氏の新刊のP170図2-62)が、石鍋氏も指摘しているようにバルベリーニのユディトのホロフェルネスやウフィッツイのメデューサと通じるような雰囲気なので、これらと同じ頃の1600年前後だと思います。また、ダヴィデのモデルについては、ウフィッツイのイサクの犠牲で左にいる天使の横顔とよく似ていると思います。イサクの犠牲のイサクのモデルはチェッコだと思うので、天使のモデルは別人であり、この顔とよく似ているプラドのダヴィデもチェッコとは別人でしょう。
ボルゲーゼの絵のゴリアテはカラヴァッジョが恩赦への期待から(罪への反省を示す意味で)自画像を表現していると思うので、1610年頃でよいと考えます。ダヴィデのモデルも積極的な理由はありませんが、前コメントで書いた同時代の他の画家の例(クリストファーノ・アローリ作ユディトとホロフェルネス)もあり、チェッコでいいと思います。プラドとウィーンの絵のゴリアテが自画像かどうかはよく分りませんが、自画像でもおかしくないでしょう。また、ボルゲーゼのダヴィデが恩赦への期待で描かれたのなら、石鍋氏の新刊でも触れているように、何故最後のローマ行きの3枚に含めずにナポリに残したのかがよく分りません。今後の宿題です。
石鍋氏の新刊では「カラヴァッジョは殺人の罪への反省などほとんどない。第一次ナポリ時代の絵はそのようなことを考えずに公的な機関から注文を受けたり、普通に生活している。バンド・カピターレが適用される地域を離れていれば命の心配もない」といったことが書かれています。1606年以降は逃亡生活ゆえの速や描きと思っていましたが、あらためて考えるとシチリア時代以外はそれほど雑な描き方をしていないし、石鍋氏の言うようにこれがカラヴァッジョの実態かと思います。石鍋氏の新刊は出てから1年近くたちましたが、まだほとんど読んでいなくて必要な部分だけの拾い読みです。今回少し読んでみたら、とても面白くて早く全部読まなくてはと思いました。私には「宗教的な意味を頭で考える宮下先生」の本(=カルベージの影響)よりも「歴史的事実をつなぎ合わせてストーリーを考える石鍋先生」の本の方が自分には合っている、という思いを強くしました。
最後に今回も本の紹介を一つ。最近「美術史と美術理論-西洋十七世紀絵画の見方-改訂版」NHK出版(1996年発行)という本があることを知りました。美術史専攻の大学生・大学院生用のテキストのようで、ちょっと古い本ですが、ヴェルフリンを始め多くの美術史研究者とその考えを紹介していて、私のように美術史を専門に学んでいなくて基礎知識のない者にとっては役に立ちそうな本です。地元の図書館にはないのですが、他の地域から取り寄せるために今手配中で、一ヵ月以内には読めると思います。ご興味があればどうぞ。
一泊で東京に行き、戻ったばかりです。レスが土日ぐらいに遅れそうなのでご了承ください。
これからイタリア語の宿題をしなければ😢
芸術新潮掲載の「神殿から商人を追い払うキリスト」の絵は、まさにカラヴァッジョの「聖マタイの殉教」の雰囲気と「聖マタイの召命」で背中を見せて座っている若者を足し合わせたような絵ですね。この芸術新潮以外で何か作品が掲載されているものはないかと思ってさがしたのですが、見つかったのは石鍋氏の昨年出たカラヴァッジョの本のP295、296の2点と2001年の目黒庭園美術館及び岡崎市で開催されたカラヴァッジョ展図録掲載の1点(聖ラウレンティウス、ローマのキエーザ・ヌオーヴァ蔵)だけでした。他のカラヴァッジェスキの作品はそれなりに情報があり、聖マタイ論争などに関連して出ている日本語論文でも多くの作品が紹介されているのに、チェッコ・デル・カラヴァッジョの情報が少ないのは意外でした。最近まで画家としての実態が不明だったためでしょうね。なお、2001年の目黒の時は私もカラヴァッジョに関心を持ち始めてから間もない頃だったので、このラウレンティウスについては全く記憶にありません。花耀亭さんはこの絵のことを覚えていますか?
そして、これらのチェッコ・デル・カラヴァッジョの作品は少しあくが強いと感じられるので、これ以上作品自体について調べるつもりはないのですが、それよりもカラヴァッジョ作品のモデルになったということの方に興味を持ちました。ボルゲーゼにあるダヴィデとゴリアテのダヴィデのモデルがチェッコであるということについては、Catherine Puglisiの「カラヴァッジョ」(Phaidon 1998年)に同時代の似たような例として、フィレンツェのピッティ美術館にあるクリストファーノ・アローリ作ユディトとホロフェルネス(1610~12頃)のモデルが、ホロフェルネスの首はアローリ自身でユディトはその愛人だから、ボルゲーゼのダヴィデのモデルもカラヴァッジョの「愛人」チェッコであると書かれていたので、納得しました。なお、このピッティの絵について若桑氏は超大型本フィレンツェの美術第6巻(小学館1973年)で「バルディヌッチの記録によればユディトはマッツァフィルリ、下女はその母親」としているので、当時こういったケースは多かったのだろうと思います。
芸術新潮6月号には「1600年から1606年にかけて制作されたカラヴァッジョの作品少なくとも6点にチェッコがモデルとして起用され」とあります。これはその上に書かれている「ジャンニ・パーピの最近30年の研究」によるものだと思いますが、一方で2016年の西美カラヴァッジョ展図録のP111に同じパーピによる「カラヴァッジョと肖像画」の一文があり、この中でチェッコをモデルとして描かれた絵が一点ずつ取り上げられていて、これを数えると7点になります。この中ではウィーンのダヴィデとゴリアテを「(チェッコがモデルとして)最後に確認できる絵で1606~07年のナポリでの作」としています(チェッコはローマからの逃亡時に同行)。これを読んで疑問に思ったのが、①なぜ芸術新潮では1606年までとして、ウィーンの絵を除外したのか、②ボルゲーゼの絵の方が後の作であり、カラヴァッジョが亡くなる1610年頃の絵ではないか、ということの2つです。①の理由は分からないのですが、②の方はパーピがボルゲーゼの絵が1610年頃の作という説(ロベルト・ロンギ)を採用していないということのようです。2019~20年名古屋他で開催のカラヴァッジョ展図録P170のボルゲーゼのダヴィデとゴリアテ解説を読むと、1959年にロンギが第2次ナポリ滞在期の1609~10年説を提唱し、それまでのローマ滞在末期説から近年ではこのロンギ説が主流となっている、とあります。つまりパーピは、ボルゲーゼの絵はカラヴァッジョがローマで殺人を犯して逃亡する前の絵であり、ウィーンの絵は逃亡後にナポリで描かれたとしているということになります。それは現在でも同じ考えであるということで、確かに芸術新潮6月号掲載のボルゲーゼの絵には「1606年」と書いてあります(名古屋のカラヴァッジョ展図録では1609~10年としています)。①の理由もこの問題に関係しているのではないかと思います。なお、上記石鍋氏の最新刊ではボルゲーゼの絵は1609~10年、ウィーンの絵はかなり早い頃の1600~01年としています(聖マタイの召命・殉教と聖マタイと天使第1作の間の時期)。Spikeのカタログレゾネではボルゲーゼの絵は1610年とし、一方でウィーンの絵を1607年頃とし、引用文献での各研究者のほとんども1607年頃であり、ロンギは年代を明記していないがロザリオの聖母と同じ頃(1603年? Spikeカタログのロザリオの聖母関係文献のロンギの項目より)としています。石鍋氏の最新刊ではウィーンのダヴィデの年代判定理由についての記載はありませんが、同じウィーンのロザリオの聖母については、最近の研究動向として年代判定のことを詳しく説明し、最終的にローマでの制作説を取っています(P253)。結局石鍋氏はロザリオの聖母の最近の研究動向→ロンギの考えるウィーンのダヴィデとロザリオの聖母が同じ頃→ウィーンのダヴィデも1600~01年 という考え方でこの早い時期の年代を考えたのだと思いますが、聖マタイの召命・殉教の直後というのではちょっと早過ぎるのではないか、もう少し遅い時期のローマにいた時代ぐらいではないか、という気がします。しかし、そうするとベルリンの勝ち誇るアモールと数年しか違わないので、ウィーンのダヴィデのモデル=チェッコ説を取る限り、チェッコの年齢差で無理があります。パーピを始めとする多くの研究者が考える1607年頃でモデルがチェッコである最後の作とするか、ロンギや石鍋氏のようにローマにいた時代とするか(その場合はモデルはチェッコではなくなる)、どちらが正しいのか、悩ましいですね。花耀亭さんはどうお考えですか?
美術史趣味では西洋美術でも日本美術でも、こういうことを考えている時が一番楽しいと思っています。ちなみに日本美術関係で今いろいろ調べているのが、三井寺の秘仏黄不動彫刻の作者に関連して、運慶の長男湛慶のことです。そして、こういった美術史での作品の判定に関する興味深い本が同じ芸術新潮6月号P109に出ていましたので、ついでにご紹介しておきます。「鑑定学への招待―偽の実像と観察による判別」杉本欣久著 中央公論美術出版3520円 という本です。直観より観察が大事だそうで、渡辺崋山など近世絵画をテーマに、筆づかいや画絹の密度などを見るポイントを述べているとのこと。この方法は西洋絵画や仏像彫刻にも応用できそうです。私は以前からモレリの方法による耳や衣の表現の比較とか、顔料や木材の科学的分析と文献資料による研究の両方からのアプローチが重要と思っているので、この本は面白く読めそうです。ご興味があればどうぞ。
この展覧会、ディープなカラヴァッジョ好きでないと注目しないかもと思っていましたが、さすが「芸術新潮」が扱ってくれましたね(^^)