連休後半の始まり5月3日はSと午前中は写真美術館にもうすぐ終わる
明治の写真展「夜明け前」とイタリアの写真家マリオ・ジャコメッティ展を
見に写真美術館へ行き、恵比寿でランチをとってから、京橋の画廊へグループ展を
見に行ってT高校同窓生に会うスケジュール。恵比寿まではSと一緒で
カメラを持っていかなかったので、スマホで撮ってもらいました。
「私の人生の良かったことをあげるなら、貧しかったこと、私が受けたすべての苦悩である」
「それぞれの道をゆく写真が存在し、そのどれもが人生の意味を探しにゆく。苦しみのある
ところに希望を見つけ、歓びと思われるものは辛いあと味を残す。きっとそこにこそ人生がある。
一人ひとりに苦しみがことさら大きく、世界の生命では生ききれないところに。」
「イメージは精神であり、
物質、時間、空間、視線のチャンスである。
我々自身の証となる痕跡であり、
絶え間なく記録や物語や知の法則を支え、
リズムを生きる文化のしるしだ。」
「初期作品」
「死がやって来ておまえの目を奪うだろう」
「スカンノ」
「ルルド」
「シルヴィアへ」
「私にはこの顔を撫でてくれる手がない」
「男、女、愛」
「風景」
「帰還」
「新しい移民たちの歌」
「私は誰でもない!」
「死がそうであるように」
「詩のために」
「善き大地」
ここまで挙げた作品の他には、有名な詩を写真に移し替えようとしたものがあります。
レオパルディの詩に触発された「シルヴィアへ」、エミリー・ディキンソンの詩による
「私は何者でもない」がそれです。彼にとっては詩句こそが、形あるものを作り出して
いくための濃密で強力な核のようなものになっていたことが、これからも分かります。
さらに、「ホスピス」や「神学生たち」といった有名な連作の中には、彼自身が詩の
タイトルをつけて呼んだものもあります(前者はチェーザレ・パヴェーゼの
「死がやって来ておまえの目を奪うだろう」、後者はダヴィッド・マリア・トゥロルド
「私には顔を撫でてくれる手がない」)。詩句と写真がまるで呼応し呼応しているようではありませんか。
ジャコメッリの写真は何世代もの写真家たちに影響を与えました。彼らはモノクロの強い
コントラスト、苦悩を詩的で奥深く普遍的なものにする彼の力にうたれ、そこに写真を
追及する意味を見出すのです。マリオ・ジャコメッリは、国際的にみても最も独創的な
作家の一人であり、死後10年を経た今でも、新たな側面、新たな連作、新たな写真などの
貴重な遺産が彼のアーカイブから発掘されています。
黒白の厳しい写真を見ていたら、とてもイタリア的だと思った。
イタリア映画祭で昔見た、「もうひとつの世界」というシスターが普通の女性に
戻ろうとして戻れない映画なども思い出した。
写真の前の言葉にも見入りながら、きわめてシャープな風景から
老いていく現実、人が生きていくことを感じながら
重いテーマの写真をゆっくり足を進めて見た。
そんな中でジャコメッリをネットで検索していたら
須賀敦子さんとの接点も見つけた。
下記はそのブログ「ジャコメッリと須賀敦子の孤独」からです。
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伊勢功治さんの『写真の孤独』を読んでいたら、イタリアの写真家、マリオ・ジャコメッリについての
論考があった。ジャコメッリは、イタリアの小都市で印刷所をしながら、モノクロ写真を撮り続けた
アマチュアの日曜写真家だ。ジャコメッリは、詩人でもあり、その文章には輝きがある。
「私はリアリストであると感じつつも、詩が凡庸な日常性の枠から抜け出すことができる言葉なのだと
考えている。空間はもう単調ではなく、私が常に同じように見えていたもの、私の町のいつもの通りや人々が、
詩に思いをめぐらせると、すっかり一変してしまうように思われる。新たな世界の体験に、私を取り込み、
心象の領域での生を、私に与えてくれる・・・」。彼の言う「詩」を「写真」と置き換えることも可能だ。
ジャコメッリが、生まれて初めて撮った写真は、波打ち際だった。寄せる波と引く波。水が届くところと
届かないところを見つめた。以来、世界のこちら側と、あちら側に常にこだわった。白と黒。生と死。
そのはざまに横たわる孤独を見つけて、シャッターを切った。そのコントラストは、極端なほど強烈だ。中間はない。
須賀敦子さんの名エッセイ『コルシア書店の仲間たち』の中に、ジャコメッリの写真についての記述がある。
ジャコメッリの故郷、セニガリアの神学校を撮影したシリーズは、当初「若き神父たち」というタイトルだったが、
ダヴィデという詩人の詩に出会ってからは、「私には愛撫する手がない」という表題に変わった。このダヴィデこそが、
須賀さんが関わった、ミラノのコルシア書店の中心メンバーであった。司祭でありながら、保守的なローマ教会と闘い、
「インターナショナル」を歌い、書店を核としながら、世の中を変えようと仲間の輪を広げた。輪の中には、
須賀さんの夫となる、ペッッピーノもいた。
須賀さんは、「私には愛撫する手がない」の写真を、日本の大学の同僚の研究室で見る。そこに写っているのは、
ダヴィデだと確信する。実際には、ダヴィッドは北イタリアの人で、ジャコメッリの写真の中の神父とは重ならないが、
須賀さんの記憶のなかでは、写真の人物はダヴィデそのひとなのだった。
『コルシア書店の仲間たち』に、こんな一節がある。
「人それぞれ自分自身の孤独を確立しないかぎり、人生は始まらないということを、すくなくとも私は、ながいこと
理解できないでいた。若い日に思い描いた、コルシア書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、
孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを、知ったように思う」
須賀さんが、写真の人物を、自分の友人と重ねたのは、ジャコメッリの孤独と須賀敦子さんの孤独、
その2つが共鳴したからではないだろうか。過去とは、現在を照らし出すための沈黙の光であり、
その手助けをするのが、詩であり写真だと思う。
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他参考ブログ
life マリオ・ジャコメッティ展
マリオ・ジャコメッリ 写真展「THE BLACK IS WAITING FOR THE WHITE」
いろいろな言葉を写真と一緒に見たけれど
私が興味があるのは時間だというような言葉も見たように思う。
メモってから13日後のアップとなりました。