かたづけやボビンをやりながらTVやYouTubeで音楽を聞いたりしているのですが、興味深い番組があったのでメモしておこうかと。
チェコの歴史は改めて確認して面白くて、NHKプラスで見ようと思って、ながらで見ていたのですが、残念なことにすでに再放送だったので
NHKプラスで見ることができませんでした。
プラハの春やその後のこと、チャスラフスカとかよく覚えていましたが、最後にチャスラフスカも復権できてよかったです。
あらためてロシアのソ連時代から全然変わらない時代錯誤の生き方に何であのような国を放置しておくのか驚くばかりです。
チェコスロバキアの歴史を振り返り、音楽の持つ力は発信者の想像を超える働きをすることに感動。
映像の世紀 バタフライエフェクト
「ヴェルヴェットの奇跡 革命家とロックシンガー」
初回放送日: 2022年5月9日 18日深夜 再放送
ソ連に軍事侵攻をされながらも20年間、抵抗を続けた国・チェコスロバキア。人々は長く暗い冬の時代を耐え、1989年
「ビロード革命・ヴェルベット・レボルーション」を果たす。その陰には、革命と同じ名を持つアメリカのロックバンドの存在があった。
「ヴェルヴェットアンダーグラウンド」である。すべての始まりは、革命家がそのバンドのレコードを手に入れたことだった。音楽が、
時空を越えて世界を変えた奇跡の物語である。
2022年5月9日放送 22:03 - 22:44 NHK総合
映像の世紀 バタフライエフェクト)
1965年、NYで結成されたロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」。バンドを率いるのは同性愛者であることを公言していた
ルー・リードで、バンドは当時はタブーとされていた同性愛やドラッグについて歌っていたのが特徴だった。特有の暗い叙情性は多くの若者を
熱狂させたが、その中にある男がいた。ヴァーツラフ・ハヴェルというチェコスロバキア人の劇作家は、立ち寄ったレコード店でヴェルヴェット
・アンダーグラウンドのレコードと出会い、それを祖国へと持ち帰った。
当時のチェコスロバキアは共産党の第一書記に就任したアレクサンデル・ドプチェクが「プラハの春」と呼ばれる民主化運動を推進しており、
社会主義と自由の両立を目指していた。共産党一党独裁の是正や言論の自由を保障したこれらの運動は市民生活に大きな影響を与え、西欧風の
ファッションや後に国民的歌手となるマルタ・クビショヴァなどの登場を招く。検閲の緩和によって西側の音楽も楽しむことが出来るようになり、
パヴェルが持ち帰ったヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードも若者の間で流行し始める。その影響を受けて結成されたバンドが
「THE PLASTIC PEOPLE OF THE UNIVERSE」。リーダーは精肉店で働くミラン・フラヴサで、彼に率いられたバンドは国内で大きな人気を博す。
こうした民主化の動きを後押しすべく、知識人も「二千語宣言」を記して民主化を加速させる。この署名には国民的スターの体操選手、
ベラ・チャスラフスカなど多くの有名人も賛同した。
しかし、「プラハの春」は意図せぬう形で突如終焉を迎えてしまう。1968年8月、プラハの街にはチェコスロバキアの急激な民主化を警戒した
ソビエトが率いるワルシャワ条約機構軍の戦車数千台が押し寄せた。ワルシャワ条約機構軍は抵抗する市民を容赦なく射殺したが、それでも
市民は丸腰で戦車に立ち向かった。劇作家のハヴェルも抵抗したうちの1人で、ラジオを通じて市民へ呼びかけた。抵抗の意思はメキシコシティー
でのオリンピックでも示され、この大会で金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカは表彰式でソビエト国歌が流れる最中、1人俯いていた。
こうした抵抗も虚しく、ソビエトの支配は止むことがなかった。議会は軍隊の駐留を承認し、翌年には親ソビエトのグスターフ・フサークが
第一書記に就任したことでプラハの春は終わりを告げる。フサーク率いる共産党は検閲の強化や弾圧を復活させ、「正常化」と呼ばれる暗い時代を
招いた。ハヴェルは全ての作品の公開を禁じられ、チャスラフスカは二千語宣言への署名撤回を拒否したことでスポーツ界から追放される。
そして、1976年には「THE PLASTIC PEOPLE OF THE UNIVERSE」のメンバーも非道徳的な行為を煽ったとして逮捕される。この逮捕にハヴェルは
異を唱え、反体制派のコミュニティを築いて抗議文「憲章77」を発表。これをきっかけとして、ハヴェルは民主化運動を牽引するリーダーと
なっていった。当局もそんなハヴェルを見逃さず、執拗な監視の末1979年に懲役されてしまう。そうしたなかでもハヴェルは「THE PLASTIC
PEOPLE OF THE UNIVERSE」に自らの別荘を貸し出し、彼らと市民にライブの場を与えていた。ハヴェルは1983年に自由の身となるが、その後も
民主化運動を続けていく。
1989年11月17日、プラハでは大戦中の死者を追悼する大規模な学生集会が行われた。しかし、次第にそれは民主化を求めるデモへと変化していく。
当局は事態を収拾するために警察を送り込んだが、それは却って事態を大きくした。そうした中でハヴェルは市民に連帯を呼びかけ、これに賛同した
市民は20万人にまで膨れ上がっていた。共産党は事態の沈静化を図るも、溢れ出した民衆の怒りを止めることはもはや不可能で、遂には国営テレビも
民衆の側につく。そして、1989年11月24日に共産党の書記長は辞任を発表。ソビエトの侵攻から20年を経て、チェコスロバキアはようやく自由を手に
入れた。革命後にはハヴェルが初代大統領に選ばれ、式典では国民的歌手・マルタ・クビショヴァも自らの歌声で革命を祝福。スポーツ界を追放されて
いたベラ・チャスラフスカも演説を行い市民を鼓舞した。この一連の革命は一滴の血も流れず、絹のように果たされたことから「ヴェルヴェット・
レボリューション」と呼ばれている。
革命の翌年、ルー・リードはプラハを訪れてハヴェルにインタビューを行うことになった。これはハヴェルが自身のインタビュアーとしてリードを
指名したことで実現したものだった。対談の最中、ハヴェルは一連の革命がヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードから始まったものだと
明かした。この日の夜、リードはプラハでTHE PLASTIC PEOPLE OF THE UNIVERSEのメンバーと共に「I’m Waiting For The Man」を演奏したが、後に
リードはこの夜のことをこう語っている。「私がバンドを結成した時、一つの音楽がどれだけの力を持ちうるかを考えていた。ヴェルヴェット・
アンダーグラウンドの表現の自由を訴える音楽はチェコスロバキアに安住の地を見出したんだ」。
自由を求めたハヴェルの精神は多くの人に受け継がれ、中国ではハヴェルの「憲章77」を参考にした「零八憲章」を劉暁波が起草。劉は憲章の
発表直前に中国政府によって逮捕されるが、憲章は全世界に向けてインターネットで発表された。2011年には北アフリカや中東で「アラブの春」が
巻き起こったが、その中で市民たちが回し読みしていたのはハヴェルの著書だった。革命の中心となったハヴェルとリードは互いに親交を深め、
ハヴェルは2011年、リードは2013年に世を去った。リードの死から2ヶ月後、プラハでは「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドからビロード革命へ」
と題された追悼ライブが行われ、このライブに登場した「THE PLASTIC PEOPLE OF THE UNIVERSE」のメンバーは「チェコスロバキアで起きた多くの
出来事は、ルー・リードの音楽から始まったのです」と語り、2人の革命家を称えたという。
「TVでた蔵」よりサマリーを転載させていただきました。
「街角イヤホン」
初回放送日: 2022年5月16日
街ゆく人たちはイヤホンで何を聴いているのか?イヤホンに流れる“音”から、人生をちょっとだけのぞき”聴く”、音楽ドキュメント。
「今、何を聴いていますか?」渋谷駅前、絶叫遊園地、大学入学式、東京タワーを舞台に、ぶっつけインタビュー。聞こえてきたのは、
辛いときに「人生どうにでもなる」と勇気をくれたアニソン、鬱屈した社会のストレスを吹き飛ばす懐かしのユーロビート、孤独な夜に
寄り添ってくれるバラード…。音と人生に耳を澄ませる20分。《プレイリスト》Liella!、『ユイカ』、マカロニえんぴつ、
橋本仁、いきものがかり、手嶌葵ほか
手嶌葵「東京」
コトリンゴを思い出しました。ジブリのゲド戦記の歌を歌っていた人ですね。心の震えが伝わってくるよう
好きだから。/ 『ユイカ』【MV】
17歳の気持ちそのままの歌。すごく素直な曲。
人を励まし、支え、そして時代を変えて行く音楽。
マツコ会議 クボジュン 2022年5月21日
マツコの番組はしばらくあまり好きでなかったけれど娘がTVをつけていたので、結構よく見てるというか、
聞いているのですが最近はゲストが面白くて。今回はNY在住で幼稚園の先生をしている元NHKのアナウンサー
久保純子。モンテッソーリの幼稚園ということで興味をひきました。とにかくすごい種類の遊具があって、刺繍なども
している。とにかく間違えても何度もやり直してそのあとの達成感と集中力を養うとか。失敗を繰り返して成功すること
が大切。幼稚園の頃から手を使い集中する環境を作る。
若いころ、建築関係の人たちと油絵を習っていたけれど、そこで知り合った人がモンテッソーリの本をみんなに
配って読んだ覚えがある。彼は本の貸し借りがめんどくさくてあげちゃうとのことでした。記憶があやふやになってきた
シュタイナーだったかな? 私の職場の同期は入社して1年で結婚して退職、でもすぐ離婚してしまってドイツに
シュタイナー教育について勉強しに行ったと聞きました。その後どうしたのだろうとふと思いました。
同じく絵のアトリエで知り合った人も会社を辞めて一時シュタイナーの塾で仕事をしたと話していたことが
ありました。もう50年も前に結構話題になっていたけど、また自主性を育てる幼児教育について目が向けられて
よかった。