庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

一秒とコンソ村

2007-02-08 14:51:23 | 自然
昨夜は後半だけだが久しぶりに良い番組を見た。TBS系の「超地球ミステリー特別企画・1秒の世界2」。

中でも、1秒間に世界中で405万円のお金が戦争に使われているという事実。戦争を永久に放棄したはずの日本だけでも、いつの間にか年間4兆円以上が防衛予算という名の軍事費に使われるようになっている・・・毎秒13万円だよ・・・人間は(正しくは“国家”だが)いつまでこんなバカなことをしているんだろう・・・と再び思わずにはいられなかった。平和は戦争や戦争の準備をすることでは絶対にありえない。平和は平和の準備をすること、それ自体の中にあるのだ。

ともあれ、特に感動的だったのが、エチオピアのコンソ村の様子。電気も水道もガスもない、つまり私たちがライフラインなどと呼んで、生活するために必須のものとされている“もの”がことごとくない世界だ。



しかし、あの少女や子供たちの笑顔の美しいこと!一切を無駄にしない村人の生き方の見事なこと!かつてシャルル・フーリエやE・カーペンターが夢見た社会がまさにそこにあるように私には見えた。

マーク・トゥウェインは「文明とは不必要な必需品の限りない集積である」と見切ったが、現代の文明社会がいかに、石川三四郎の言う“幻影の”必需品によって支えられているか・・・よく分かるというものではないか。

無論、コンソ族が500年前に他の部族に草原を追われて、山岳地帯に逃げ込むように居住を始めたことの悲哀や、ほとんど全て自然に拠って日常生活を送ることの厳しさは、文明・強者の側に住む人間が容易に察する範囲を超えているかもしれない。

しかし、文明文明といっても、たかだかこの100年か良いとこ200年の話で、うちの田舎などのほんの50年前は、庭の井戸から水を上げ、米も風呂も裏山で取れた薪で焚いていたし、おかずの魚や海藻は目の前の海にいくらでもいた。山ではないが、このコンソの村のような自然と共に生きる匂いがあちこちに残っていたのである。

高翼・レシプロ

2007-02-07 19:22:42 | 大空
今日はほぼ10日ぶりのサイクリング・・・といってもちょっと距離のある自転車散歩だ。自転車でのんびりブラつくことを、最近では“ャ^リング”と言うらしいが、私の場合、道中かなりの距離を積極的に自転車押しながら歩くのだから、まさに自転車+散歩で“自転車散歩”と呼ぶのがふさわしい。

さて、お気に入りのコースの途中には松山空港がある。私はいわゆる航空マニアではないので、必要なとき以外はあんまり航空機に注意することはない。ところが、今日のは私好みのレシプロ・高翼機。これがジェット機をしのぐ勢いで上昇していく。こんなのが松山空港から飛んでるのかぁ・・・最近のレシプロは力があるなぁ・・・などと感心しながら機体にカメラを向け、あっという間に高度を上げて春霞のような薄雲を突っ切っていく姿をしばらく眺めていた。



家に帰って調べてみたら、これが松山空港からは朝昼晩と3便しか出ないフォッカーのF50という機種であり、やはりなかなかの性能だということが分かった。ちょっと貴重な出会いをしたわけだ。

便名 松山 → 中部国際 機種
●ANA 1822 09:50 → 11:10 F50
●ANA 1826 13:30 → 14:50 F50
■ANA 1828 20:40 → 22:00 F50



ところで、飛行機に初めて乗るという経験は私にとっても当然大事件だったはずなのだが、ここ松山空港のYS-11ということ以外、いつの何の用事だったのか、明確に思い出せないのはなんでだろう・・・。

今日の自転車散歩のもう一つの驚きは、街中の小さな田んぼにレンゲ草が咲いていたこと!おいおい、いかに暖冬とはいえまだ2月の頭だぞ。



飛行理論

2007-02-06 23:14:20 | 大空
何故か管理不能となった別のブログに寝かせていた「飛行理論の覚書き」の記事を、まとめてこちらの「飛行理論」のカテゴリに移動した。

基本的に、無線誘導なしの単独フライトが可能となった段階の教習生向けに、思い付いたまま「覚書き風」に書き連らねているもので、なんら体系的なものではない。

一般的な飛行理論や航空力学、更には航空気象、航法などについては、その道の専門書がいくらでもあって、屋上屋を架すような興味も能力も私にはないのだが、ただ、巷間出回っている理論書の大半は固定翼を前提にしたもので、その理論内容を空気の圧力そのもので翼形を成す“エアロフォイル(軟体翼)”の世界に応用する場合は少しの工夫を必要とする。

そして、あらゆる普遍的理論が生命を持つのは、一回限りの具体的体験においてであり、その体験一つ一つが集積されてある程度の分量を持つようになると、今度はその体験の側から理論を眺めるようになる。

そうすると、ときどき理論と経験がずれる場合が出てくる。それは大概、勉強不足か経験不足が原因なのだが、極めて稀にそうとも言い切れない場合がある。

理論と実践は車の両輪である・・・とはよく言われることであるが、生きた経験の側から自分のフライトスタイルにとってほんとうに必要な理論を再構築してみたい・・・というのが私の夢の一つである。

OCR

2007-02-06 09:43:22 | 自然
Man is wise and constantly in quest of more wisdom; but the ultimate wisdom, which deals with beginnings, remains locked in a seed. There it lies, the simplest fact of the universe and at the same time the one which calls forth faith rather than reason.
- Hal Borland

人間は賢明だから絶えずより多くの智恵を求める。しかし、ものごとの原初を扱う究極の智恵は一粒の種の中に封じ込められている。まさにそこに、大宇宙の最も単純な事実であると同時に、理性よりもむしろ信仰を引き出す事実が存在している。
- ハル・ボーランド

There are no limits to either time or distance, except as man himself may make them. I have but to touch the wind to know these things.
- Hal Borland

人間が自分自身で作り出さない限り、時間にも距離にも限界というものはない。これらの事実を知るのに、私は風に触れさえすれば良いのだ。
- ハル・ボーランド


 

こんな刺激的な文句に出合ったら、作者の本を一冊くらい読んでみない訳にはいかない。そこでボーランドのベストセラーである“Beyond Your Doorstep"を、一年ほど前にアマゾンの古本屋から取り寄せたことはココに書いた。この1900年生まれの自然作家(~1978年)は日本ではあまり知られてないが、アメリカでは ‘Valor: The Story of a Dog' (勇敢なる犬物語)などの子供向けから、“The Seventh Winter"(七番目の冬)などの大人向け小説、その他多くの自然関係のエッセー類も含めて広く読まれている。



このカエデのしおりが挟まれた味のある古本は、とりあえず『戸口の向こうに』と訳してざっと拾い読みし、そのままにしてあったのだが、つい最近、プリンタ複合機のドライバ・ソフトに付嘱していた、日本語は全く使い物にならないOCRが、英文はかなり正確に読み取ってくれることを知って、この本の何章かを全部テキストにしてみようという気になった。

それじゃあついでに、よほど気に入った部分は末オてみようか・・・という気にもなっている。

土民生活WEB版

2007-02-05 13:22:00 | 自然
石川三四郎の『土民生活』の寛太郎的現代風口語訳を以下URLにまとめてWEBページとしてUPした。
http://www.geocities.jp/kantaroliberal/domin.htm

文体はまだ必要以上に硬質だから、これを現代のナチュラリストや私自身、自然そのものの子供たちが、さらにすんなり飲み込めるようなものにできればいいな・・・と考えている。

彼の言う「土民生活」を、物質文明がほとんど極点に至ったかに見えるこの現代世界において実践することは不可能に近いだろう。しかし、近年ますます多くの人々が都市生活に見切りをつけて「田舎暮らし」を始めたり、そこまでいかなくても小さな庭やプランターを家庭菜園の場にしたり、様々なアウトドア活動に元気を得ているのは、私たちがいつまでも自らを照らす光明に背を向けることに耐え得る存在ではないからにちがいない。

リンドバーグ

2007-02-04 23:57:11 | 大空
Man must feel the earth to know himself and recognize his values... God made life simple. It is man who complicates it.
- Charles Lindbergh

我々は自分自身を知るために大地を感じ取り、その(自分自身の)価値を認識しなければなければならない。神は生命を分かりやすいものとして創った。それを複雑にしているのは人間である。
- チャールズ・リンドバーグ




今日はC・リンドバーグの誕生日だ。航空という現代文明の先端を走り続けてきた彼は、やがてその文明の鋭い批判者になり、飛行機と鳥のどちらを選ぶ?と聞かれたら鳥を選ぶ、と答えるほどのナチュラリストになる。

1974年の夏に72歳で亡くなった彼の簡素な墓はオアフ島にあり、緑と海に囲まれたその地は鳥たちの楽園でもある。

土民生活9・10・11

2007-02-04 09:02:00 | 自然


私たちが大地に着き、大地を耕すのは、これ天地の輪廻に即しているからである。工業も、貿易も、政治も、教育も、大地を耕すために、大地を耕す者のために行われるべきはずのものである。私たちの理想の社会は、耕地事業を中心として、一切の産業、一切の政治、教育が施され、組織されなければならない。換言すれば、土民生活を立てることにある。もし土民生活者の眼をもって今日の社会を見れば、いかに多くの有害無益な設備と組織とが大偉観を呈(てい)して存在するかが、分かるであろう。そして、そのためにいかに多くの人間が有害無益な生活を営むかがわかるであろう。そして、そのためにいかに多くの有為な青年壮年が幻影を追って生活するかが分かるであろう。いまや、世界を挙げて全人類は生活の改善を叫んでいる。しかし、その多くは幻影を追ってバベルの塔をよじ登るに過ぎない。幻想を追って騒いでいるに過ぎない。幻滅の夕べ、彼らが疲れ果てて地上に唐黷驍ニき、大地は静かに自らを回転しつつ太陽の周囲を廻っている。そして謙遜な土民の鍬(くわ)と鎌(かま)とを借りて、大地は彼らに平和と衣食住を提供するであろう。



そうである、大地の運行、ローテーション(自転)とレボリューション(公転)、これが自然の大いなる舞曲である。音律ある詩そのものである。音楽そのものである。俗耳の聞くことのできない音楽、俗眼の観ることのできない舞、俗情の了解できない詩である。梢(こずえ)の上にさえずる小鳥の声も、渓谷を下る清流の流れも、山林に吹く松風の音も、浜辺に寄せる波のささやきも、すなわちこれ大地のオーケストラの演奏の一部にすぎない。大地は偉大なる件p家である。
 私たちは大地の子、土民であることを光栄とする。私たちは日本の歴史を通じて、「土民起こる」の言葉を用いる。むしろ旗、窒竄閧ヘ、すなわち土民のシンボルである。そのが「土民起こる」時、そのむしろ旗、窒竄閧フひらめく時、社会の改革はすなわち大地のレボリューションと共鳴する。幻影の上に建てられたバベルの塔はその高さがある程度に達したとき、大地の回転運動のために振り落とされるのである。その幻滅のレボリューションはすなわち大地のドラマである。

十一

 大地のローテーションは私たちに昼夜を与え、大地のレボリューションは私たちに春夏秋冬を与える。この昼夜と春夏秋冬とによって、大地は私たちに産業を与える。大地の産業は同時にまた大地の件pである。件pと産業とは大地においては一つである。大地の子、土民は、幻影を追うことをやめて、大地に着き大地の真実に生きることを願う。大地の子、土民は、大地の件pに共鳴し協働して、穢(けが)れない美的生活を享楽することを願う。土民生活は真である、善である、美である。

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以上、『土民生活』の寛太郎的現代風口語訳

底本:「石川三四郎著作集第二巻」青土社
   1977(昭和52)年11月25日発行
初出:「社会主義」
   1920(大正9)年12月号


5℃

2007-02-03 08:55:41 | 自然
今朝の室温。今冬、最低気温を記録した。郵便受けの上に溜まった夜露が氷になっている。この南国では、ひと冬数回しかない珍しいことだ。

自宅の屋根がうっすら白くなっている。これも昼までには溶けて消えるだろう。



ベランダの時計草は折り返しの誘導線でピタッと成長を止め、葉を縮こませながら寒さに耐えているが、枯れることなく頑張っている。



土民生活7・8

2007-02-03 08:34:00 | 自然


こうした自然の中に、井戸を掘って飲み、土地を耕して食べる。人間の生活はこれだけで充分である。それが人生の全てである。人間は大地と共に生きるより他に、何事をも成しえないものである。私たちは大地によってのみ天を知り、大地によってのみ智恵を得る。大地だけが私たちの教育者である。大地だけが真の件p家である。大地を耕すことは、すなわち大地の教育を受けることに他ならない。大地の養育を受けることに他ならない。そうして、大地を耕すことは、また、大地の件pに参加することである。そのように、大地を耕すことは、すなわち私たち自身を耕すことに他ならない。



社会の進歩とは、社会とその個人とが大地の恩恵を正しく享受するということでなくてはならない。ギリシャは地の利を得て繁栄した。そうしてギリシャ人がその地の利を乱用して、返って大地を離れ大地を忘れた時、退廃してしまった。強大なローマ帝国も、土の匂いを嫌う貴族や富豪の重量のために悼オたのである。より多くの大地をより良く耕すことは私たちの名誉であり幸福である。それと同時に、自ら耕さない地面を領有することは、不名誉な罪悪である。領土の大きさを誇る虚栄心は、すなわち多くを耕すという名誉の幻影にすぎない。


あられ雪

2007-02-02 22:38:51 | 自然
今日はこの冬初めて雪が積もった・・・といってもほんの数十分。しかも昼間のにわか雪的あられ雪。しかし、事務所の周囲の家々の屋根は、つかの間の白い化粧に輝いた。

上空に局地的でかなり強力な寒気が入ったらしい。午後2時過ぎか、ちょっとウトウトしていたら急に夕暮れ時のように周囲が暗くなり、バタバタとガレージを叩きながら大粒の雪あられが降り出した。それが間もなく霙(みぞれ)に転じ冷たい雨に変わって、1時間ほどでまた青空に戻るという、ちょっと忙しい空模様だった。

私は生来こういう気象の転変は好きな方で、台風や雷光などが好きなことはどこかに書いた。年中変化の乏しい単調な天気より、何かしら変化することが、自然を生きている、より身近なものと感じさせ、さらに小さな自分の意図に関係なく変化してやまない自然の運行に、畏浮キべき大きさを感じ取っているからなのかもしれない。