碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
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『おっさんのパンツ』が、『不適切』に迫る「昭和のおじさんドラマ」である理由

2024年03月09日 | 「ヤフー!ニュース」連載中のコラム

 

『おっさんのパンツ』が、

『不適切』に迫る

「昭和のおじさんドラマ」である理由

 

気がつけば、今期ドラマの「おじさん」たちが元気です。それも、ただのおじさんではない。

昭和を生きてきたおじさん。アイデンティティーのベースに昭和があるおじさん。メンタルが昭和なおじさん。つまり「昭和のおじさん」です。

『不適切にもほどがある!』(TBS系)がそうですが、原田泰造主演『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』(東海テレビ・フジテレビ系)もまた、出色の「昭和のおじさんドラマ」です。

昭和のおじさんの「成長物語」

主人公の沖田誠(原田)はリース会社の室長。「男が上を目指さないでどうする!」などと部下を叱咤激励(しったげきれい)してきました。

いや、それだけではありません。「お茶は女の人がいれたほうがおいしいだろ?」や「そんなんじゃ嫁に行きそびれるぞ」といった発言も日常的でした。

しかし、メンタルが昭和な本人には当然の言動も、部下たちにとってはパワハラやセクハラだったりします。

家庭内でも同様です。推し活を楽しんでいる妻の美香(富田靖子)を「こんな女みたいな男どこがいいんだか」とからかう。

また息子の翔(城桧吏)の友人で、ゲイの大学生・五十嵐大地(中島颯太)には、「君といて(息子に)ゲイがうつったら困る」などと暴言を吐いていました。

そんな誠ですが、大地と話をするうちに、自分の中で何かが変わり始めていく。そして、大地に勧められた、モラルの「アップデート」を試みようとするのです。

しかし、凝り固まった偏見をなくし、倫理観とマナーを更新するのは簡単なことではありません。

失敗を重ねる誠の姿に、見る側もつい自身を投影してしまう。昭和のおじさんの「成長物語」として秀逸なのです。

ある日、誠は気づきます。性別や性的指向は「おっさんのパンツ」みたいなものだと。何をはいても誰の迷惑にもならない。あくまでプライベートなことであり、公表する必要もない。

それに家族だって自分とは違う人間だ。他者が大事にしているものを自分の尺度で否定してはいけない。それは、このドラマの根幹にかかわる「発見」でした。

原作は練馬ジムさんの同名漫画。藤井清美さんの脚本が原作のメッセージをしっかりと伝えています。

昭和のおじさんが挑む「アップデート」

人は誰も自身の人生の積み重ねを経て、今を生きています。

「おじさん」と呼ばれる年齢になれば、良くも悪くも自分の価値観は出来上がっており、それをベースにあらゆる判断を行っているのです。

しかし、その価値観や物事の判断基準は本当に正しいのか。自分が知らない、もしくは知ろうとしない新たな常識を棚上げにしてはいないだろうか。

このドラマを見ていると、ふと自分にも問いたくなります。

いつの間にか、世の中には十分理解しているとは言えない事象や言葉があふれています。誠もそうでした。

妻の「推し活」、息子と「LGBTQ」、娘(大原梓)の「二次元LOVE」、そして部下が愛用する「メンズブラ」等々。

誠は、「若いころは当たり前に分かった流行が分からなくなっている。いつ変わったのかも知らない。どう変わったのかも説明できない」と心の中でつぶやきます。

自分とは無関係だと切り捨てるのか、それとも知ろうと努力するのか。誠は、自分にとって一番大切な「家族」と共に生きていくためにも、「アップデート」を決意したのです。

とはいえ、昭和的なものを無条件に排除するのではありません。時代とズレてしまった部分の価値観を必要な分だけ更新していくのです。

それは昭和のおじさんに限った話ではないでしょう。世代や性別などにかかわらず、「なかなかアップデートできない」という人は少なくないはずです。

抱えている常識は古めで、偏見にも縛られている誠ですが、情は厚くて真っ直ぐなところがあります。

そんな男が「出来るところからやってみよう」とトライするドラマだからこそ、すべての人にとってのケーススタディになり得るのだと思います。

「昭和のおじさんドラマ」のその先へ

『不適切』も『おっさんのパンツ』も、昭和と令和のギャップが物語の基盤となっています。

前者はSF(サイエンス・フィクション)の要素を生かした「ツッコミ型」であり、後者はリアルな現在(いま)と向き合う「ヒューマン型」。

そのアプローチは違っても、「笑い」という武器は共通しています。

見る側は、昭和のおじさんたちが巻き起こす、「衝突」や「理解」や「受容」といった展開を笑いながら楽しめばいい。

その先に見えてくるのが、「令和」という時代の、世代を超えた歩き方なのではないでしょうか。