今日はまずリピータ―小学生から。いよいよ完成1日前になり、バックをなるべく張り終わる事を目標で張って行く。ここではっきりと苦手な人とそうじゃ無い人に分かれるのね。今までは不慣れな中、それでもモチーフの線に沿って狙って、
切って来たのね。当然慣れて来て上手くもなって来た・・・それじゃって時に、いよいよバックになる。じゃどうなる?って言うと、好きに切って良いよ・・・ランダム、クラッシュ・・・何でも良いと言いながら、大き過ぎはダメだし、
小さ過ぎてもダメ・・・全然何でも良く無いじゃん。その通りなのね。これが決まりです・・・ってそこを目指してやって来て、最後の最後にお好きにどうぞ・・・今こそこう切って・・・と言って欲しい気持ちになる。何せそこに慣れて
来たのに・・・。って事なのね。でも自由なのに不自由な気持ちになる。それは今まで正解があったから、目指せた。でも今はその逆で、自由になった分、目指す方向性を自分で決めないとならない。しかも自由には正解は無い。
なのに不正解はある。何とも理不尽なもので、まるでコロナなのね。初めての事は何をしても正解など無い。けれど不正解はある。経験値によって、きっとこれはダメだろうな・・・これは辞めとこうか・・・みたいに。
つまり決まりがあった時は正解探し。逆に自由になった時は不正解探し・・・みたいな。同じやり方では中々上手くは行かないのね。しかも狙って切った時の分量と、バックの分量を比較すれば良く判るのね。大抵はバックが多いのね。
それなのに、今までの時間は掛けないで終わりたい訳なのね。勿論、同じだけ掛ける気なら、やり方も変わって来るけれど、そうでは無い。つまりこの時点で同じやり方では無い事をしないとならない事に気が付くでしょ?
つまり簡単な話で1点豪華主義的な考えで、主役に時間の大半を掛けて、後はバック・・・と考える。じゃ主役の仕上がりは?となれば、狙って切って・・・輪郭の線を守って・・・って窮屈な事を徹底的にやって来たのね。
それによって狙って切る事が出来るようになった。それを続ける事で狙って切った主役モチーフになった。それが手慣れていようがいまいが、その人の全力狙いのパーツの集合体なのね。それを経て今度は自由。
じゃその自由でどうする?って時に、やったぁーって、何でも良いのぉって進める人と、えっ?だって・・・どうやって?って戸惑う人の2通りになったとする。やったぁーって人は、何でも良いって考えるとどうするかな?
そして、えっ?って言った人はどうするかな?ここから大きく変わって行くのね。コロナで規制が掛かった。普通はじっと我慢・・・それならどちらの人も守った。守って狙って切った。結果に甲乙はあれど、守った、狙ったは一緒。
なのに、解除となると、やったーとえっ?に分かれる。ではやったーなら、自由になる事が嬉しい。じゃ出掛ける。何処まで何日?・・・でもね、コロナ。つまり自由なんだけれど、コロナは変わらないのね。見えない決まりがあるのね。
そこで、でもそんなの関係無いぃぃって言うのなら、本当に勝手になる。それなら決まりは無くなった・・・と勝手にやる事になれば、勝手にモザイクってどうなるか?それは大変だった決まりを解除する。大変だったのは何?
それは目地幅を揃えたり、小さかったパーツを巨大化させる事。決まりがあった時は、そんな大きいのは入れられなかったし、出っ張るのも禁止だから、細かいパーツも入れたりした。つまりそれが嫌なら楽をしようとする。
でも自由・・・それも良いかも知れない。ただ今までやって来た事を捨ててしまえば、台無しになる可能性もある。だから、狙った時程は・・・って無くすじゃ無くて、緩くする。リード無しの犬じゃ無くて、リードが長くなった。
こんなイメージ。つまりやったーの人には、リードはあるよ・・・の指導で、これ以上の大きさは入れない、これ以下は入れない・・・って目安を決めると良いよ・・・その判断が自由なだけで、見えないリードを自分で作る事。
逆にえっ?って人は、自由を不自由と考える。戸惑う、どうして良いか判らない。こうなると今まで通りが安心になる。確かにね。でもね、今まで通りなら、掛かる時間も倍になるんじゃないのかな?もう残り時間の大半を使ったよ・・・。
つまりそもそもが性格なのね。ソロが苦手って感じにね。楽譜通りに進めて来たから、最後のバックも楽譜が欲しいってね。違う違う、ここはソロ。でもね、性格なのね。自由にしても決まりが欲しい。だから、さっきと同じで、
これ以上は入れない、これ以下も入れないイメージを作れば・・・と同じ事を言っても、前者ならそう言っても大き目なパーツを入れたがるし、後者ならそれでも中々大きく出来ない・・・なのに、後者は小さいのは何処までも入れる。
こんな違いが表れる。同じ指導の中で自由にすると結果が変わる・・・これが個性なのね。じゃ良いじゃんなんだけれど、初心者を自由にし過ぎると、結果が荒れる。結果が荒れると出来栄えが悪くなる。だからその人その人の出来栄え
から、自由を失わず、自由はあって、規制をし過ぎず、規制は最低限あって・・・みたいな事になる。まるで政府の制作みたいにね・・・ただ安全過ぎるのも・・・にもなるし、安全しなさ過ぎもね・・・。
そんなこんなでバックがお互い終わって来ると、前者は色んな所に隙間がいっぱいあって、それは大きなパーツが沢山あって、そこに目地を入れるとなると、目地の色の方が強くなるから、そこは入れようか・・・になる。
逆に後者はそんな隙間は許さないから、絶対に入れる。ってこんな感じになる。さてじゃその残りの隙間。隙間なんだよ・・・難しくない?だってその形に切らないとならないんだよ・・・ただね、狙って切るって基礎は得意でしょ?
だって主役で徹底的に取り締まったもの・・・ここでどちらも基礎が役立つ。後は性格、気持ちの問題。でも頑張れ・・って月並みな事を言うつもりは無いのね。だって頑張って来たから。最後だから時間までやろう・・・。
折角だから。もう終わりだから・・・もう張らなくて良いんだから。おしまい・・・って。そう言うと大抵は名残惜しい気持ちでやってくれる・・・終わるって事はバイバイだから。いずれにせよ、そんなこんなの後1回・・・。
ただね、子供はこんな感じになっても、大人は難しいのね。言葉と気持ちは裏腹だから。やったーとえっ?の2つにしても、やったー側かと思いきや、こんな事を聞けば、やったー側なのに、えっ?側に来ようとしたり、えっ?側なのに、
きっと私はえっ?側だから・・・と無理にやったー側に行こうとしたり、判っていて、でもそんなの関係無いって言いつつ固執するようにそっち側に居続けるって感じになり、途中からやっぱり・・・と変更しようとしたり・・・。
色々複雑なのね。もっと言えば、自分がどっち?って言うのを見誤っている事も多々あって、逆だったりすると、そりゃ窮屈で1つの例なら、普段大まかだの豪快だのって側で、繊細からは大きく離れているように見える人。
こんな人は周りでそんな表現の扱いをされているのを、自分でもそう思い込む。更に言えば、そんなだけれど、モノを作る時は繊細・・・なんて事を言ったりもする人もいる。でもねモノ作りってのは自分自身なのね。
その人なのね。繊細なモノを作る人は繊細なのね。ただそこに繊細になるだけのこだわりがあるか?無いか?の判断でそう言う態度、決断、言い方になっていて、そこに声を張ったり、態度が大きかったり、体の大きさとか、要するに見栄え的なもので、ただ思い込むだけなのね。他人も自分も。でも、良く良く見れば、ちゃんと作ったモノを見ればその人
になっているのね。勿論、それが大作なら今日の私・・・だから、しくじる事もあるし、調子に乗る事もあるかも知れない。それが体験なら1回・・・そこそこなら十分満足だろうし、今日の気分の前に終わってしまう。
大作をやっている人は、その気分を安定的に保て、しくじった事を次で挽回もするだろうし、その時その時の自分できっと立て直すだろうし、先人はそんな事を踏まえて、作品は自分自身と表現したのだろうね。きっと。
だから問われるのね・・・自分自身なら、コロナもどうするか?・・・安全安心も良し、守って出掛けるも良し。でも不正解はあるんだろうが・・・モザイクも生き方も規制が解かれたら、判断は自分になる・・・と言う事なんだろうな。
さてそれでは、何が正解か?故人には聞けないし、自分で判断しないとならないのね・・・そんな新作3のナナカマド。結局、欲張って白も赤も使う事にしたのね。これで白パールのバックを使えるし、白丸は消える。
良いかどうか?は判らないけれど、悪くは無い・・・後はそう見えると良いな・・・のお・ま・じ・な・いだけ。