今日は午後からさくら教室。ただ空いている午前中に、ひょんな事から、父とまた梨園に行く事になり・・・今の時期は前回の幸水って肌のなめらかな、噛んだ時に柔らかく甘いものから、豊水って言う、梨本来のざらっとした肌で、酸味の
残るものに変わっている看板を見る時期なのね。所が、本来9月過ぎにならないと見掛けない、あきづきやら、かおりなんて言う看板が目に付く・・・えっ?な訳無いじゃん。どんなに早くたって、9月に入ってからだよ・・・。
更に止まった時に見ると、出荷終わりました・・・とか、シャッターを閉めている店もあって・・・。そんな中、父の行き付けの店に付くと、やはり閉まっていて・・・裏に回ると、中に主人がいて・・・。
話を聞くと、長雨やら暑さで状況が変わっていて、幸水、豊水はいつもの3分の2位しか取れず、出荷分をキープすると、店頭で売る分まで回らず、店を休む所も出ている・・・って話。しかも、前倒しに、あきづきや、かおり、のような本来
9月過ぎに出て来るものが、逆に採れてしまうらしく・・・だから有り得ない、豊水、あきづき、かおりが一緒に並んじゃう事になったみたいなのね・・・。こんなの初めて見たのね。そんなこんなで戻って、さくら教室。
自宅でパーツの仕込みをして来たのね・・・
沢山切ってあった・・・でもね、さくら・・・何切って来た?・・・えっ?何かこのしずくみたいな形、可愛いでしょ?って。こらこら、そうじゃ無くて、ふくろうに使う羽根に見えるパーツであって、さくらの好きな形じゃ無いよ。って話
なのね。確かにこれでも十分見えるのね。そして今まではこれでOKを出した。何故ならパラリンピックの人だから。具合が悪い・・・って事で、人と同じように出来ない・・・って言ってたから。でも今回は人と同じように・・・。
だからオリンピックに出るような感覚。例えば普通に一般的になら、こうして・・・ってサンプル1枚を見せて、それで大小を作って張るって言う繰り返しになるのだけれど、さくらには繊細に整えるが判らない。その理由が手が動かず、
とか、眼がボヤっとするとか、そんな事が起きるらしく、そんな人に無理矢理やらせるのは・・・と思い、出来る事を拾おうって教えて来たのね。しかも、十分な見栄えになっていたから、それで良かった。けれど、今回はそれとは違う
事を本人が望んでいるので、なら取り締まりを厳しくする事にしたのね。でもただ普通の人扱いしているだけなんだけれどね・・・しかし、そう言う症状がある人を普通扱いで出来るはずが無いのね。何故なら不便が普通なのだから。
そもそもさくらに一番言いたいのは、人一倍感じる事なのね。普通の人には感じて・・・と言うのに、人と同じようにやりたい事を望むなら、人一倍感じる事なのね。それを人一倍努力する・・・なんて言葉に置き換えてもダメなのね。
それではただ曖昧にしているだけなのね。さくらに足らないのは普通の人が感じている事を感じようとしない事。例えば、突然盲目になった人と、最初からそうなってしまった人。結果としては一緒でも、全く違うと思うのね。
あるものが無くなった悲しみと、最初から無い悲しみ。この場合、悲しみ比較だけれど、実際はそれでも歩きたいから、人一倍の聴覚で、察知する能力を磨くと思うのね。だから、まるで見えているかのごとく歩ける。
実際にお灸やらハリ治療、マッサージみたいな職業にそんな方達がいて、若い頃にぎっくり腰になった時に、お世話になった事がある。つまり言いたいのは、もし人よりも足らないと思う事があるのなら、努力や根性みたいな曖昧にせず
具体的に足らない事を感じ、それを補う事に時間を費やす。さくらには人一倍敏感になれ・・・が課題。暑さを感じない、味も感じない、眼も・・・みたいな表現だらけ。それでも、十分に使える場所はあるし、足らない事は見て来た分
俺なりに判る。だからこそ、厳しくならないように・・・にして来たけれど、今回からは感じようとしない時は厳しく取り締まる事にしたのね。では具体的に何をどう取り締まるか?良く人はそうそう変わらないみたいな表現をする。
つまり習慣になってしまうからなのね。当たり前に・・・だから、慣れる事で上手くなるのに、慣れる事で諦める。常に良い事と悪い事は背中合わせなのね。さくらは感じない・・・に慣れた。だから、まず感じるって言う事を人並みに
・・・って水準に上げないとならず、でも諦めてしまっている人を普通に上げるだけでも難しいのに、人一倍敏感に感じる所まで上げないとならないのだから、言わないとならない側も傷付く事になる・・・。とても厳しいのね。
さてそれじゃどんな事をするか?問題は考え方にある。だから考え方を変えて行かないと、手に連動しないのね。いくらテクニックなんて身に付けようとしてもね。結局やるのは脳なのだから・・・単なる手先に頼ってはね。
そのトレーニングは、例えばお金を拾いました。どうする?・・・こんな質問。1円では?10円では?50円?100円?1000円?5000円?1万円?100万円?・・・まずは必ず本気で拾ったとして考える事。拾って無いから判らないと言わない事。
そしてこれは想像力に繋がる。イメージするトレーニングにもなる。そして緊迫感も生まれる。例えば1円に恐怖は感じない。でももし100万円なら?・・・世の中には一億円拾った人だっているのだから。どれだけ怖い思いをしたか。
でも単純にラッキーじゃん。私も欲しい・・・って表現する人もいるだろうが、もし本当に見付けてしまったら?実際そう言えるか?となった時、言えないのなら、質問に本気で向き合っていないから、いくら教えても身にならない。
ではさくらは一体どう答えるか?簡単なのね。1円でも国家予算でも警察に届ける。そうね、幼い子供に言い聞かせるのなら正解だと思う。けれど1円を50にもなろう人が、警察に届ける姿、ある意味滑稽にも思える。
これね、財布じゃダメなのね。全て現金のみじゃないと。だって身元が判っていて届けないと泥棒になっちゃうから。でもね、もうどうにもならないよな・・・これ。ここの決断を問われるときの練習なのね。一瞬の判断の。
こんなの馬鹿馬鹿しいって言う人がいるのなら、じゃこんな例はどうだろうか?野球やサッカーのような団体競技。当然連携プレーに出くわす。こんな場合はこう、こんな場合はこうなんて、想定して特訓めいた練習をする。
まぁ基本だからそれも良い。でもね、いつもの練習では、仲間なのね所詮。だから足を削りには来ない。試合ってのは勝ちたい強欲な奴らの集合体。場合に寄っては、反則しても見えなきゃ良いのだから・・・サッカーってそうじゃん。
当たってもいないのに転んでファール、見えない所でプロレスまがいに当たって、上着を引っ張り、何もしてないよとアピール・・・こんな事をプロでもする。当然野球だって当たって無いのに当たったと言ったりもする。
好きな人には申し訳無いが事実だから仕方無いし、それを判って見れば、仕方無いな・・・で済む。でもさくらは、それが全部判らないのね・・・何でそんな事をするの?勿論1円を届ける感覚の人なら、当然の考え方になる。
もはや幼稚園の子なみなのね。ルールが。ってこの程度の枕の話を前提に、宿題パーツを見て貰うと、判るのだけれど、エリートも凡人も子供も老人もみんな一緒・・・手を繋ぎましょうって見えるのね。とても優しい考え方に見える
でも、本当だろうか?さくらはこのフクロウをそうしたパーツで埋め尽くして、みんな平等ねって作りたいのかな?それでは、おままごとになるのね。洗練されないし、何でもアリになり、それではルーズになるし、まとまらない。
これは左側がさくらの💧の形で、しずくと表現したもの。そして右は直したもの。上下尖っている。どっちが羽根に見えて行くか?であって、しずくが可愛くて、上手く切れたでしょ?って言う考え方なら、フクロウを辞めて模様作りを
お勧めする。それならずっとそれを続けて・・・と教え方が変わるから。そもそもここで先人の人達が、右のパーツで結果をみんな残している。それなら、それを真似すれば成功側へ行けるはずなのね。だから練習しているのに、
自分の勝手に好きなパーツを切り、尖がらなくても良いよね・・・って気持ちで切れば、そうなってしまうのは必然で、とんかつのキャベツ切りの練習なのね。さくらの考えはいらないから、レシピ通りに。
つまり二軍も三軍も合同練習・・・もっと言えば、レギュラーって何?・・・これがさくらのパーツ。もっと残酷に振り落とす。きっちりエリート、きっちり一軍、そう言うパーツになるまで切り直し、ダメなら捨てる。
残酷なんだけれど、良いモノを作るってそう言うものだったりする。愛好家、ブリーダー、良種を残す為に、毎年どれたけの数が死ぬ?って話と似ていて、上手くなる為にどれだけ無駄にした?って言っているようなもので・・・。ただ
実はさくらは人一倍感じる人で、逆に感じないようにしているだけだと思うのね。感じない努力をしているんだろうね・・・感じない様にしてバランスを取っている。大変なのねきっと。それをそうなんでしょ?って引き戻すんだから、
簡単でもあり、残酷でもある。しかも引き戻せば、生き方が知覚過敏。繊細なだけに傷付く。ただ一人ならそれで死んじゃうかも知れないが、死なせないから大丈夫。信用している奴がいる・・・って時点で、置いてきぼりは出来ない。
そのルールはさくらは良く知っている。さて、どうやって引きずり出せるのかな?でも童話では、無理やり脱がそうとしても駄目だからなぁ・・・やっぱ、面倒だけど説明かぁ・・・。
こんなの習った訳じゃ無いから、都市伝説的に、信じるのならどうぞ・・・な話ね。繊細な事をしようとすると、段々なんて言葉は判りやすいのね。その時にタイルで表現するのだから、段々どう出来る?って話になるのね。
だから上は、段々太いとか、逆に段々ほそい・・・下は段々長いと言うのなら、逆に段々短いなんて事になる。良く使う事だけれど、料理なら、甘い、辛い、苦い、しょっぱい・・・なんて1つのワードで判りやすい表現がある。
でもこの2つの混ざったワードが繊細さを増すのなら、甘じょっばいと同じで、細長いなんて言葉になる。ほそいのに長い・・・となると、ほそみじかい・・・なんてのが逆になるパーツなんだけれど、そんな言葉ある?じゃ浮かばないとね
・・・切れない。度々出て来るけれど、丸なら誰もが浮かぶ。でも、ここで良く出て来る、いびつ角形だの、レロレロだのと一緒で、ほそみじかい・・・って新語を自分なりに作るのね。しかも聞いた人が、あぁって判るような・・・。
では、みたらし団子を表現して?甘じょっばい・・・何だそれ?これは一体、甘いの?しょっぱいの?どっち?って言った時、しょっぱいが勝たないと駄目なのね。1つの例として、キモ可愛い・・・甘じょっばい・・・しょっぱいが勝つなら
可愛いが勝たないと、甘いが勝てば、キモイが勝つ事になる。つまり言葉は合体した時に、後半が勝たないといけないルールになっているのね。こうした理解の上、こんな場合は?こんな時は?と考える訳ね。つまり何か質問が来たら、
えっと、例えばこうだとして、だとしたら、って事はこんな感じ?みたいな順番にね。でもこの公式めいた事は、普通はこうだとして・・・みたいに、一般的な多数決で勝ちそうな答えを推理しないと、その基準を間違えると致命的。
そうね、例えばさっきの拾ったお金の例題だって、子供が拾った場合も違って来るし、子供はいくつまで子供って基準でも違うし、公園や原っぱ、学校やスーパーでも変わって来る。こう言う設定にしても繊細さって言うのに繋がる。
そもそも映画監督なら、さくらのようではスピルバーグ位にならないと予算も気にせず、自分の好きな役者を選ぶんだろうね・・・きっと。でも予算の中、一体誰を使って後、いくらで何を作る?、みたいに、窮屈な中、普通は作るのね。
ある意味、、アマチュアの作品はそんな事を考えずに、自由に作れると思うのね。ただ、プロになるとそう言う細々した制約の中、しかも比較されて、しのぎを削る事になり、更に毎年新人が上がって来る・・・
しかも教える立場になり、いつか自分を抜かして行くかも知れないライバルを作る事になったりもする。そんな中での日常をさくらの考え方で生き延びれるか?となった時、大抵は水が合わないだろうね・・・きっと。
もっと鯉のように悪条件で生き延びる強さや柔軟性を身に付けないと。環境に馴染む・・・それには常に変化が必要なのね。今までこうして来た・・・は固定観念の塊。そんなのどうでも良い。新しい場所ではそんなの通用しない。
新しい場所は順応なのね。受け入れるは勇気・・・それこそがウイルスをワクチンに変えられるのだけれど・・・まぁいずれにせよ、さくらに本気で教える気にはなっている。って意気込みはある。ただ文章にすると重々しいが、別に
新しい事を特別にする気は無いのね。たださっきの図のようなものは、さくらには効果的かも・・・とは思って、やって行こうとは思っているのね。