■【きょうの人】 0904 ■ 藤子・F・不二雄 ドラえもんの生みの親 ■ 二宮 尊徳 経世家、農政家、思想家 ■ 田中 正造 日本最初の郊外に立ち向かった男
独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。
そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。
■ 田中 正造 日本最初の郊外に立ち向かった男
たなか しょうぞう
天保12年11月3日(1841年12月15日)- 1913年(大正2年)9月4日)
幼名、兼三郎、下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)の出身です。
日本の政治家で、日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として知られています。衆議院議員選挙に当選6回。
足尾鉱毒事件は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本で初めてとなる公害事件です。
銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起しましたが、加害者決定はされませんでした。
足尾の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っています。
学生時代に、鉱山跡に行ったことがありますが、周囲の木々は立ち枯れたまま残っていました。その不気味さは、人気もないことから今でも覚えています。
■ 藤子・F・不二雄 ドラえもんの生みの親
ふじこ・エフ・ふじお
1933年〈昭和8年〉12月1日 - 1996年〈平成8年〉9月23日
ドラえもんで知られる漫画家であり、脚本家です。本名は、藤本 弘(ふじもと ひろし)、「F」とは「藤本(フジモト)」の頭文字を意味し、藤子・A・不二雄と区別していることはよく知られています。
富山県高岡市定塚町出身で、富山県立高岡工芸高等学校電気科を卒業しています。
隣接の氷見市出身の安孫子素雄(藤子不二雄?)と共に“藤子不二雄”としてコンビを組み、数多くの作品を発表してきました。
児童漫画の新時代を築き、第一人者となり、代表作は『ドラえもん』の他に『パーマン』『キテレツ大百科』『エスパー魔美』『21エモン』などがあります。
作品の著作権管理は、生前に活動拠点としていた藤子・F・不二雄プロが担当しています。
愛用していた鉛筆は三菱ユニのB、ペン先はゼブラのかぶらペンとこだわりがあり、整理された画面構成を好み、不必要な線が入りすぎることを極端に嫌いました。
ちなみに、藤子・不二雄?のプロフィールを以下に挿入しておきます。
ふじこ・ふじお・エー
1934年3月10日 -
日本の漫画家で、本名は、安孫子 素雄(あびこ もとお)です。大垣女子短期大学客員教授をしています(2020年5月22日現在)。
座右の銘は「明日にのばせることを今日するな」で、血液型はA型です。
藤本弘(藤子・F・不二雄)とともに、藤子不二雄としてコンビを組み、作品を発表してきたことはよく知られています。コンビ解消後は、本名で紹介されることも多いようで、筆名の「?」は「安孫子」の頭文字であることは、想像がつきます。
曹洞宗49代目住職の息子として、富山県氷見郡氷見町(現:氷見市)の光禅寺という古刹に生まれました。
大人になってもベジタリアン(卵と乳製品は食べる卵乳菜食)ですが、思想上の理由ではなく、子供の頃に精進料理ばかり食べていたため、習慣上の問題として肉や魚を体が受け付けなくなっていることが原因だといいます。
1944年に父を亡くして高岡市に転居し、転入先の高岡市立定塚国民学校(現・高岡市立定塚小学校)で藤本弘と知り合いました。
小学校時代から漫画家を志し、高校在学中に毎日小学生新聞でデビューしました。
『オバケのQ太郎』、『忍者ハットリくん』、『魔太郎がくる!!』などのヒット作にめぐまれています。
2人の合作によるヒット作は『オバケのQ太郎』が最後であり、これ以降は藤子不二雄名ではあっても、そのほとんどはどちらかの単独作品です。
■ 二宮 尊徳 経世家、農政家、思想家
にのみや たかのり
天明7年7月23日(1787年9月4日)-安政3年10月20日(1856年11月17日)
江戸時代後期の経世家、農政家、思想家です。自筆文書では、金治郎(きんじろう)と署名している例が多いのですが、一般には「金次郎」と表記されることが多いです。
諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読みますが、「そんとく」という読みで定着しています。
経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導しました。
四字熟語 経世済民
http://www.glomaconj.com/joho/keieijoho.htm#17
相模国足柄上郡栢山村(現在の小田原市)に、百姓二宮利右衛門の長男として生まれました。
尊徳は、まず生まれた堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻としますが、離縁、20歳も若い、貞淑温良ななみ(波子)と結婚しました。
文化5年(1808年)、母の実家川久保家が貧窮するとこれを資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し、基金を立ち上げるなど、成果を出しています。
小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が、金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼し、千両もの負債を償却し、頭角を現しました。
文政4年(1821年)には、小田原藩主大久保家の分家であります宇津家の旗本知行所が荒廃していて、再興救済を藩主より命じられました。農民の抵抗で苦労しましたが、再建しました。
晩年近く、天保4年(1833年)には、天保の大飢饉が関東を襲いましたが、金次郎の力を充分に発揮しました。
二宮金次郎といえば、戦前には、どの学校にも銅像が建っていると言えるほど、一般的でした。背中に芝を背負い、本を読む姿は、子供達へのお手本でした。今日では、歩きスマホが非難を浴びていますが、当時は、むしろ誉められる行為だったのですね。
◆ 【きょうの人】 バックナンバー
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【 注 】
【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。