【きょうの人】 1028 ■徳川慶喜生誕 江戸幕府最後の将軍 ■酒井忠次 徳川家康のNo.2
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■ 徳川慶喜生誕 江戸幕府最後の将軍
天保8年9月29日(1837年10月28日)に江戸幕府最後となる第15代征夷大将軍の徳川慶喜が誕生しました。子供の頃、大人達が「ケーキ」といっていたのを聞いて「おもしろい名前の人がいるものだ」と思ったことがあります。
毎朝、運動不足解消のために散歩をしています。すぐ近くに国際仏教学大学院大学があります。そこは、徳川慶喜終焉の地として知られています。慶喜に関するものは何も残ってなく、碑だけが残っています。
【Wikipedia】 徳川 慶喜(とくがわよしのぶ)
江戸幕府第15代征夷大将軍(在職:1867年 ‐ 1868年)。江戸幕府最後の将軍で征夷大将軍に任じられた最後の人物。
御三卿一橋徳川家の第9代当主として将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた後に徳川宗家を相続、第15代将軍に就任。大政奉還や新政府軍への江戸城明け渡し(無血開城)を行なった。明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。
生誕:天保8年9月29日(1837年10月28日)
死没:大正2年(1913年)11月22日
墓所:谷中霊園
氏族:徳川氏(水戸家→一橋家→将軍家→慶喜家)
父母:父・徳川斉昭 母・吉子女王(有栖川宮織仁親王娘)
■ 酒井忠次 徳川家康のNo.2として苦言を呈す
さかい ただつぐ
大永7年(1527年)-慶長元年10月28日(1596年12月17日)
酒井忠次は、戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将で、徳川の筆頭とされ、家康第一の功臣といわれています。
酒井忠次の生誕地である井田城址で、徳川氏の前身である松平氏の譜代家臣・酒井忠親の次男として今日の愛知県岡崎市井田町です。元服後、徳川家康の父・松平広忠に仕えていました。
竹千代(徳川家康)が今川義元への人質として駿府に赴く時、家臣の中では酒井正親に次ぐ最高齢者(23歳)として同行しました。この後、松平元信(徳川家康)の配下として仕えました。弘治2年(1556年)、柴田勝家に2,000騎で激しい攻防の末、勝家を敗走させるなど軍略にも長けていました。
永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いの後、徳川家の家老となり、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では、多くの酒井家武将と行動を別にして、家康に従いました。
石川一正が、西三河を、忠次が東三河を統制することとなり、家康の主な戦いには全て参戦し、功を残しています。歯に衣着せぬ物言いをする人ですが、家康の厚い信任を受け、家康第一の重臣となりました。
松平家が、織田信長から武田との謀反の詰問を受けたとき、家康の息子信康を十分に弁護できませんでした。これが家康の心のそこにあったのか、他の重臣が多くの禄を加増されましたが、忠次は、その恩恵を受けませんでした。
天正16年(1588年)、長男の家次に家督を譲って隠居しました。加齢、眼病などがその理由のようですが、家康のやり方に嫌気がさしたのではないかと、私は考えます。
慶長元年(1596年)10月28日、京都で死去、享年70、墓所は知恩院の塔頭・先求院で、墓は知恩院山腹の墓地内にあります。
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【 注 】
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