選挙の前後には、いつも一票の重さ・格差の問題が報道されます。今回の選挙も違憲状態での投票になるようです。
私はこの問題を理論的には理解できるのですが、実感としては何の意味があるのかよくわかりません。つまり総論として、一票の重みに差があることは、憲法で保障されている平等の原則に違反しているということなのでしょうが、各論としての実際の投票の感覚には出てこない気がします。
例えば、100人で一人を選ぶグループと、200人で一人を選ぶ場合、格差は2倍ということになります。この場合選ぶ方の300人は変えようがないので、対処法としては、グループを150人ずつに分ける、選ばれる人を増やして200人で2人を選ぶなどが考えられます。さて実際の選挙では、まず議員定数は削減する方向にあります。またグループとしての都道府県を基本単位とするのは、納得性が高いと思います。これは歴史的経緯もあり、議員が地元の代表的意味合いもあります。ですから人口が少ないといって、鳥取と島根で一人などというのは、県民感情を無視していることです。まあこれは制度の問題ですので、どう変わっていくか見守りたいと思います。
時々一票の格差の問題と、当選に必要な獲得投票数がいっしょになっている報道がありますが、これは全く関係ありません。50万票で当選することもあれば、10万票のこともありますがこれは選挙戦の結果ですので、格差とは関係ありません。先の例でいえば、100人で選ぶほうが、候補者が2人で、大差で勝てば80で当選、一方200人のほうは5人立候補し、接戦であれば60で当選するわけです。余談ですが、議会も株主総会のように、議員の獲得投票数によって、議決の際の投票に比例させる、つまり10万票の人が1とすれば50万の人は5の権利を持てば、有権者の意思が反映されるような気もします。
前回の総選挙の時、私がいる選挙区は、自民・共産の2人しか立候補者がいませんでした。私にとって選択の余地が狭いことが大いに不満で、一票の重みが少ないことはほとんど気になりませんでした。私のように、一票の格差など気にしない人が多いことが問題なのかもしれません。それにしても格差が残ったままなので、選挙が無効などという議論は、せっかく投票に行った有権者を無視しており、とても国民のための訴えとは思えません。
私はこの問題を理論的には理解できるのですが、実感としては何の意味があるのかよくわかりません。つまり総論として、一票の重みに差があることは、憲法で保障されている平等の原則に違反しているということなのでしょうが、各論としての実際の投票の感覚には出てこない気がします。
例えば、100人で一人を選ぶグループと、200人で一人を選ぶ場合、格差は2倍ということになります。この場合選ぶ方の300人は変えようがないので、対処法としては、グループを150人ずつに分ける、選ばれる人を増やして200人で2人を選ぶなどが考えられます。さて実際の選挙では、まず議員定数は削減する方向にあります。またグループとしての都道府県を基本単位とするのは、納得性が高いと思います。これは歴史的経緯もあり、議員が地元の代表的意味合いもあります。ですから人口が少ないといって、鳥取と島根で一人などというのは、県民感情を無視していることです。まあこれは制度の問題ですので、どう変わっていくか見守りたいと思います。
時々一票の格差の問題と、当選に必要な獲得投票数がいっしょになっている報道がありますが、これは全く関係ありません。50万票で当選することもあれば、10万票のこともありますがこれは選挙戦の結果ですので、格差とは関係ありません。先の例でいえば、100人で選ぶほうが、候補者が2人で、大差で勝てば80で当選、一方200人のほうは5人立候補し、接戦であれば60で当選するわけです。余談ですが、議会も株主総会のように、議員の獲得投票数によって、議決の際の投票に比例させる、つまり10万票の人が1とすれば50万の人は5の権利を持てば、有権者の意思が反映されるような気もします。
前回の総選挙の時、私がいる選挙区は、自民・共産の2人しか立候補者がいませんでした。私にとって選択の余地が狭いことが大いに不満で、一票の重みが少ないことはほとんど気になりませんでした。私のように、一票の格差など気にしない人が多いことが問題なのかもしれません。それにしても格差が残ったままなので、選挙が無効などという議論は、せっかく投票に行った有権者を無視しており、とても国民のための訴えとは思えません。