西行はその生涯に二千首以上の和歌を作った(岩波文庫『西行全歌集』には約二三〇〇首が集成されているが、その中には真作がどうか疑われる歌も含まれる)。花を詠んだ歌が目立って多いのは言うまでもないことだが、月を詠んだ歌もすこぶる多い。『全歌集』巻末の初句索引を見ると、初句が「月」で始まる歌だけで五十首を超える。これに初句中あるいは第二句以降に「月」を含む歌を合わせれば、優に二百数十首を数え、つまり、全作歌の十分の一を超えている。西行と実朝に共通する特徴として、類題による連作も多く、そこには習作的性格も見られるから、それらすべてをそれぞれ独立の一首と見るのは当たらないかもしれないが。
それにしても、この月への愛着というか執着は、どこから来るのであろうか。和歌の伝統的な詠題の一つであるということはもちろんその理由にはならない。月を自然美の結晶の一つとして賞美するということにも尽きない。独り寂しく住む庵の友としての月を詠んだ歌、例えば、
ひとり住む庵に月のさし来ずは何か山辺の友にならまし(山家集・雑・九四八)
などあるが、そういう山里の独居の慰めのためだけに月を眺め、歌に詠んだわけでもない。一点の翳りもない月の光による心の浄化という静謐な世界に憧れたというだけでもない。ましてや悟りすましての瞑想ではありえない。夜空に輝く清澄な月は、浄福な世界への導きとしてかぎりなく心惹かれるものであると同時に、まさにその果てしない吸引力によって、それに抗い難く誘われてしまう地上の詩人の心に底知れぬ不安を呼び起こす。いや、というよりも、澄明な月光に照らされた無限の不安の内に行方も知らず佇んでいると言うべきだろうか。
ゆくへなく月に心の澄み澄みて果はいかにかならんとすらん(山家集・秋三五三)
澄み切った月を眺めていると、どこまでも心が澄み渡ってゆき、そのゆきつく果てもわからない。仏道修業によって安心立命を得るにはあまりにも鋭敏過ぎる自然美への感受性を持っている魂の独白を聞く思いがする。