内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

思想的実践としての〈叙景〉― 新古今和歌集の哲学的意味論序説

2014-10-11 19:57:15 | 哲学

 自然を人間世界にとって外なる対象としてその全体を〈自然〉として概念的に把握するという態度は古代日本人には無縁のものであった。とすれば、「日本人の自然観の歴史的展開」などという問題の立て方自体が、西欧から Nature の概念を導入し、それを「自然」と訳したことによって発生した近代的な問題の立て方であり、もちろんそうすることによって日本思想史に通底する問題を浮かび上がらせることができるという効用は認めるとしても、事柄そのものへのこのようなアプローチの仕方によって隠蔽されてしまうその時代固有の心性的事実というものもあるだろう。
 敢えて挑発的な言い方をすれば、万葉人が「見ゆ」「見れど飽かぬ」という表現によって対象化していたものは〈自然〉ではない。それは端的に眼前に立ち現れる有情の空・山・川・海・草・木・花などの風光の中の佇まいであり、それが取りも直さず彼らの心の佇まいに他ならなかったと見るほうがずっと彼らの生きていた真実に近いのではないかと私は思う。
 しかも、それらの自然の光景はそれぞれに同一性をもった実体的構成要素からなる現象として分析的に知解されていたのでもなく、万有あるいは宇宙というような全体的存在として抽象的に思惟されていたのでもなく、「自ずから然り」の具現として見られていたのだと思う。その自ずからそのように立ち現れるものにそれとしてその都度感応するところに〈歌〉が生まれたのではないだろうか。
 万葉集に数多く見られる「見ゆ」「見れど飽かぬ」という表現が古今和歌集では消失してしまうことについはこのブログの別の記事ですでに言及した。では、「見ゆ」に代わって古今集に頻出する動詞は何か。それは「思ふ」である。そこに私たちは、「見ゆ」から「思ふ」への詩的感受性の移行、自分が見ようと思って見るのではなく、そこに自ずと見えるものとして立ち現れるものに唱和することでその見えるものとともに生きようとする万葉的感性から、我が心のうちに思うことへと注意が内向し、自然の風光が思いのうちへと内包され、思いこそ最も身近な現実として自覚される古今的感性への移行を見て取ることができる。
 そして、この思いの表現の工夫が散々尽くされ、人間社会の争乱を通じて人心の儚さ頼りなさを嘗め尽くした後に登場するのが定家に代表される新古今的感性である。逆説的な言い方を敢えてすれば、その感受性は、新古今集に最多の九十四首が収められている西行の感受性とも違う。出家し、都を離れ、山里を求め、花と月とをこよなく愛する西行的志向性とは違い、治承四年(一一八〇年)十八歳にして書き始め、半世紀以上に渡って克明に綴り続けた日記(後世「明月記」と呼ばれるようになるが、本人は「愚記」と呼んでいた)のその最初の年に「世上乱逆追討雖満耳不注之、紅旗征戎非吾事」と書き付けた定家の詩人としての覚悟は、没落してゆく貴族社会を目の当たりにしつつ都に留まり、「和歌の世界の内に幽玄なる別天地を創造する」(『家永三郎集』第一巻一一四頁)ことにあった。
 新古今の叙景歌は、したがって、言うまでもないことだが、万葉のそれとはまったく性格を異にするものであり、そこに詠まれた風光は、「時空の制約を超えて無始無終に縹渺として連る無辺際の実在とも称せられるべきもの」(同書一一五頁)と言うことができるだろう。
 先日の記事では、漱石の『草枕』の解釈について、家永の『日本思想史における宗教的自然観の展開』に対して批判的な言辞を弄したが、同書の新古今の和歌の思想的特性についての分析は鋭い。自然が「現実を超えた一種の形而上的存在に迄高められる」(一一六頁)ことを求めた新古今の和歌についての家永の論述に今少し耳を傾けてみよう。

新古今的自然の非現実性は、斯う云ふ思想的要求から生まれたものであつて、従来単に作歌技巧の進歩としてのみ取扱はれて来た客観描写とか、体言止めとかの特徴も、技巧以上の思想的根拠から一層深い意味が考へられるのではないであらうか。何となれば、作者の主観的感情を歌中にもちこむことは人間的煩悩からの遮断と云ふ根本の目的と相容れないし、この根本の目的に添ふ純客観的表現の為めには対象自体の noema 的表示としての体言止めが最も適当した語法だからである(同頁)。

 叙景に徹し、しかもそこにはもはや古代の「見ゆ」の世界はその面影さえないということは、単に古代的感性の喪失という否定的観点から見られるべきではないことは言うまでもない。古今集の「思ふ」の世界をも突き抜けた新古今の和歌の世界は、それを特徴づけるのに「叙景」という言葉を使うことさえおそらく適切ではない。そこでの作歌とは、風景を叙すことではなく、言葉において妖艶なる〈景色〉を創造し、それを端的に示すことによって、纏綿たる一切の人間的感情を断ち切るという思想的実践に他ならない。