内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

可塑的共同体構築のための基礎理論覚書

2014-10-14 19:22:07 | 哲学

 私が担当する授業もすべて今日からいわば試験週間に入ったので、今日の午前中も午後の修士の演習の準備は後回しにして、今月末のCEEJAでの発表の原稿作製のためにまず時間を取った。
 田辺の「種の論理」それ自体については、これまですでに数回、様々な場所で発表してきたので、それについての準備はさほど必要としない。シンポジウムの趣旨からして、〈種〉の論理を未来に向かって読み直すことができるのかという問いに重点が置かれることになる。より問題点を限定して言えば、発表のタイトルにも明示したように、新しい可塑的共同体構築の基礎理論として〈種〉の論理を読み直すことができるのかということが問題になる。
 この問題は、二つの系列の問題群に分節される。一つは、構造論系と呼ぶことができるだろう。個人と国家との間の媒介項を全体構造の可動的要素として組み込むときの理論的基礎を提供できるのかというのがその第一の問題である。絶対媒介の弁証法に忠実であろうとするかぎり、この構造は、いかなる自己同一的実体的要素も含まない。すべては他の項目によって媒介されてはじめてそれとしての表現を得る。したがって、田辺自身が陥ってしまったような国家の実体化は、論理的に排除されなくてはならないし、個人の実体化についても同様である。言うまでもないことだが、あらゆる種についても同様である。絶対媒介の弁証法は、すべての項が無限に他の項によって媒介されることで、全体が開かれた無限に動的な構造であることを論理的に要請するはずである。
 もう一つの問題群は、実践論系である。ここでは、国家、社会、共同体などのいずれかにおいて、それらに対する撹乱要素あるいは壊乱要素がその内部において発生した場合、あるいは外部から侵入した場合にどう対処するのかという、今日はやりの言葉を使えば、危機管理の問題である。
 この問題系への対応は、さらに二つの系列に分けられる。一つは自然科学系のモデルに基づいた対処である。論文 « L’émergece » の中でも再三取り上げられている生物学や生態学での同問題への取り組みが参照されることになる。より具体的な事例としては、疫学が参照される。ある生活環境の中に発生した未知の壊乱要素に対処するのに、その要素を既知のメカニズムに回収しうる要素に還元して対処するのでは、有効な対処ができない事例をそこに見ることができるからである。既存のメカニズムでは、壊乱要素を徹底的に排除することも壊滅させることもできない事態が現に発生していることは、現在の「イスラム国」への各国の対処の仕方を見ても明らかだろう。
 そのような事態への対処として、ある生態環境の制御因子を外部から導入せざるを得ないとき、そのような制御因子は、その環境における既存の構成要素がその制御因子にたいして抑制因子として働くこと、そしてその働きを前提にしなければ制御因子はそれとして機能し得ないということが、生物学・生態学の知見を参照しつつ確認されなくてはならないだろう。
 そして、一旦その制御因子による制御システムが機能し始めると、その環境の構成要素は物理化学的レベルと生理学的レベルではなお既知の要素・カテゴリーに還元可能であるとしても、その新しい統御システムの機能的構成要素はそれとして還元不可能な単位を構成するようになる。
 同じく実践系の問題群には、もう一つの系列があり、それは社会科学の知見に基づいた対処論である。差し当たり念頭においているのは、ジンメルの対立・葛藤論とトクヴィルのアソシエーション論である。前者については、先日の記事でもすでに言及したが、対立・葛藤を社会の積極的な構成契機とする理論として取り上げる。後者は、トクヴィルが一八三〇年代のアメリカ社会を実地に見聞することで認めたデモクラシーの動的構成要素としてのアソシエーションの機能、特にその社会的行動としての側面が強調されることになるだろう。
 もちろん、発表ではここまで書いてきたことにそのとおり言及するわけではないし、そもそもそのような時間はない。むしろ、それだからこそ、発表の内容の前提あるいはそれが置かれるべき広い文脈を覚書として残しておくためにこの記事を書いた。