内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

文明の黄昏を超然と生きる

2014-10-09 19:06:24 | 講義の余白から

 火曜日から金曜日まで週四日出講しているが、他の曜日が一コマずつなのに対して、今日木曜日だけ隔週で二コマ四時間ある。午前十時から正午までが古代文学史、正午から午後二時までが修士一二年の合同演習。
 フランスの大学では、一般に、講義と講義の間に休憩と移動のための時間が設けられていない。開始と終了を告げるチャイムもない。教師によって対応は違うが、私の場合は定刻に始めて少し早めに終わるのを原則としている。それは私の授業のすぐ後の講義の担当者に迷惑をかけないためと私の学生たちの次の教室への移動時間を確保するためとである。
 しかし、今日の一コマ目の前には別の講義が入っており、この先生がほぼ毎回定刻をオーバーする。毎回謝ってはくれるし、とても感じのよい方ではあるのだが、なんとかならぬものか。ほぼ毎回パワーポイントを使う私としては、定刻少し前に教室に入って定刻前にセッティングを終えておきたいのだが、それもままならない。それに前後二つの講義の学生たちが入れ替わる時間も考慮しなくてはならない。私の講義もその前の講義も出席者は四十名程度だから、入れ替えに大して時間はかからないが、これが何百人も受講している講義だと、学生たちが入室して、各自席に落ち着くの待つだけでも、十分近くかかってしまうこともある。
 というわけで、時間割上は二時間となっていても、実質講義できる時間は、一時間四十五分から五十分くらいである。学生たちに日本の大学では授業と授業の間に十分から十五分の休み時間が必ず有りますよ、と言うと、それは実にもっともなことだという顔をするのだが、何でフランスはそうしないのだろうか(私の前任校では二年前から部分的に導入しはじめたが)と聞くと、彼らも首をかしげるばかりなのである。
 多くの人が不合理だと思いながら、その慣習がそのまま続くという、フランスでは大学にかぎらず当たり前な光景がこれからも随所で観察され続けることであろう。こういう国に中長期的展望に立った漸進的改革の実施ということは金輪際不可能で、誰の目にも明らかな不都合があたかも慣習のように残っている現体制が腐りきって崩壊する寸前まで、日々不平不満で日常会話が盛り上がり、しばしばストライキとデモ行進で憂さを晴らし、それでも結局何も変わらず、ついに革命に至るのである。それがフランスの近代史であった。
 しかし、残念ながら、今のフランスにはその革命を起こすエネルギーさえどこを探してもない。ただ衰亡していくばかりである。大げさな物言いであることを承知で敢えて言えば、一文明の黄昏に生きるとはこういうことであろうか。少なくとも定年までこの地に暮らすつもりでいる私としては、それまでは何とか現システムが持ちこたえてほしいと小心な国家公務員として切に願うばかりである。
 こんな戯言はともかく、講義では、学生たちにとっては遥か彼方の異国の遠い昔の話を超然と続けるのである。今日の午前中の講義は、まず古代歌謡について。とくに日本の詩歌の揺りかごとしての歌垣について詳しく説明する。後半は、記紀歌謡に現れる枕詞の原初的な働きについて。こういう話を講義で正々堂々とできることをありがたく思う。
 午後の修士の演習は、今日から学生たちの発表。高橋哲哉『靖国問題』第二章の紹介と分析が与えられた課題。今日の発表を担当した四名の学生(二年生が一人、一年生が三人という構成。他の三グループも同様)は、トップバッターということで準備時間が十分に取れなかったというハンディはあったことは認めるが、それにしてもちょっと期待はずれの出来であった。徒に冗長な紹介で、全然論点が浮かび上がって来ない。パワーポイントの作り方もお粗末。長くても45分と言ってあったのに、結局一時間近く発表にかかり、聞いている学生たちも途中で集中力が切れてしまった。後半に入っても議論にならず、私が主に問題点を指摘するばかりであった。次回に期待する。