内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

万聖節休暇前の最後の講義を終えての感想

2014-10-24 18:41:38 | 講義の余白から

 今日の古代史の講義が万聖節の一週間の休暇前の最後の授業だった。先週の試験の結果を踏まえて、今回から一文一文、用語法についても文法的にも詳細な説明を加えていくことにした。特に、一般的に使用頻度の高い語彙・表現が使われている文と構文的に複雑な文とについては、日本史的観点から内容として重要かどうかにかかわりなく、時間をかけて説明することにした。結果として、今日は僅かに一頁半読んだだけである。
 日本学科には、私が担当している古代史ばかりでなく、第二・三学年で合わせて八コマある日本史と日本文学史の講義には一貫した方針が伝統的にあって、それは、日本の高校の教科書をそのままテキストとして用い、それを学生たちに読ませながら、日本史及び文学史の全般的知識を身につけさせると同時に、日本語読解の訓練もするという二重の目的をもっているということである。
 いきなりかなりハイレベルな日本語を読ませるという点については私もこの基本方針に賛成なのだが、古代史から現代史まで全般的にこれだけの時間をかけて学習するのが妥当かどうかについては、正直なところ、いささか疑問を持っている。自分自身の考えを整理しておくために、以下、その疑問をここに書き残しておくことにする。
 日本学科なのであるから、学生たちは必ずしも歴史や文学の勉強をするために来ているわけではないのに、現行のカリキュラムでは、歴史と文学という二つのジャンル以外については、翻訳の授業で様々なテキストにちょっと触れるだけで、学部生の間はそれ以外の分野のテキストをじっくり読む機会がまったくない。これでは、学生たちが持っているであろう潜在的に多様な関心を呼び起こすことは難しいし、知識の習得という点からもバランスを欠いていると言わざるをえないのではないだろうか。
 教える側の私自身は、自分の関心領域からして、古代史、古代・中古文学史、中世・近世文学史を担当することを楽しんでさえいるのだが、学生の立場に立って考えてみると、歴史的順序に従って古代から始めるせいで、二年生になった途端に、一年生の間には本当の日本語の文章にはほとんど接する機会がなかったのに、いきなり見たこともないような複雑な漢字が並んでいる構文的にもかなりやっかいなテキストを与えられ、しかも内容は自分たちの想像力の範囲を超え出るような遠い遥かかなたの話であるというのは、日本語学習の順序と内容という観点から妥当と言えるであろうか。
 古代史と古代文学史を並行して担当していて特に問題になることは、それ以降の時代に比べれば、教科書の中で占める頁数も少なく、今学習中の奈良時代を例に取ると、文学史の方ですでに学習済みか今学習中の『古事記』『日本書紀』「風土記」『万葉集』についての説明に割かれた文章が歴史の教科書の方ではこれから出てくるというように、かなり重複部分もあることである。こういう重複は、中古以降は少なくなる。言い換えれば、歴史と文学史それぞれに異なった話題が多くなるので、講義内容の重複という問題は生じにくくなる。もちろん上記のような重複部分は歴史の方では省略するとしても、ではそれ以外に特に時間をかけて説明すべき箇所が歴史の方にあるかというとそれほどでもないのである。
 では、どうするべきだと私は考えているのか。少なくとも古代史と古代文学史は統合して履修時間数を半分に減らし、その分を他の分野のテキストあるいは歴史記述とは異なるタイプのテキストの学習に充てるべきであると考えている。学習内容全体のバランスから見てもそう考えるが、この二つの講義が現行カリキュラムではどちらも第二学年前期に配当されているだけになおのことそう考える。
 そのタイプの異なるテキストの具体的内容については、人によってさまざまな選択肢が考えられるであろうが、私自身が選択するとすれば、日本の現代国語の教科書に採用されているような、様々な分野の専門家、特に自然科学者たちが中高生向けに書いた、平易でありながら本質的な問題を考えさせるエッセイを読ませることだろう。
 カリキュラムの一部変更に相当するこのような講義内容改変は、行政的手続き上は簡単ではないのだが、今後折を見て同僚たちと意見交換を行なっていくつもりである。
 それはそれとして、明日からはしばらく講義のことは忘れて、月末のシンポジウムでの発表原稿と大森荘蔵仏訳論文集中の担当論文の仏語要旨の作成に集中する。