内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

辞書を読む愉しみ ―中世における「寛容」の不在から古代における「パレーシア」へ

2014-10-26 18:47:45 | 読游摘録

 冬時間初日の今日日曜日から日本との時差は八時間に広がった。日曜日のプール開門時間は午前八時だが、昨日までの夏時間で言えば、今日の開門は午前九時に相当する。たった一日で日常の起床就寝の習慣的時間が一時間すぐにずれるわけではないから、これまでは日曜日朝の八時開門時直後には来る習慣のなかった人たちも今日は開門時間に来たのであろう。開門後たちまち混んできて、あまり快適に泳げず、僅か三十分泳いだだけで上がった。
 帰宅してからは、原稿書きに集中する。より正確に言えば、これまで書いた断片を、全体の議論の筋道に沿って章ごとに並べ直し、そこに適宜引用を挿入し、さらに出典の書誌的情報や補足事項を脚注に書き込むという作業であった。
 その作業の傍ら、ときどき確認のために辞書・事典類を参照していたのだが、論文あるいは発表原稿作成上の必要に迫られて何か特定の語について辞書類で調べるときは、必要な箇所だけをちょっと見るだけで、項目全体に目を通すとは限らない。つまり、調べ物のための道具として使っているだけである。
 しかし、辞書で「調べる」のではなく、辞書を「読む」のは、私の愉しみとするところである。かつて教室で学生たちに「私の枕頭の書の一つは、『フランス語歴史辞典』(Dictionnaire historique de la langue française, Le Robert, 2009)です。こんな面白い読み物はそうありませんよ。皆さんにもお薦めします」と言ったら、まるで異星人を見るかのように引かれてしまったのをよく覚えている。私に言わせれば、こんな宝の山を前にして心躍らないとは誠に残念な話である。
 今日は、発表原稿で「寛容」概念の起源に触れるために、同辞書で動詞 « tolérer » とその項目に派生語として組み込まれている « tolérance » のところを読み返していた。この項目を読めば、ラテン語の « tolerare » を起源とするこのフランス語が、他者の信仰の自由を認める宗教的寛容という意味で使われ始めるのは、十六世紀末からだということがわかる。
 では、ヨーロッパ中世には、今日言う意味での「寛容」あるいはそれに近い概念はあったのだろうかということが気になりだした。おそらくないであろうとは予想されたが、今度はこれもお気に入りの事典の一つである『中世事典』(Dicntionnaire du Moyen Âge, PUF, 2002)を調べてみた。そもそも « tolérance » という項目があるかどうかさえ危ぶまれたのであるが、ちゃんとあった。
 その項目の記述は大変面白くかつ示唆に富んでいるのであるが、全部訳すにはちょっと長過ぎるので、その最初の方だけを紹介する。
 「寛容」という言葉が、現実あるいは真理について、特に神学的問題に関して、複数の観点の存在の正当性を容認するということを意味するのならば、中世にはほとんどそのような態度を示す言葉を見出すことはできない。中世では、古代ギリシアの例に倣って、パレーシア(parrhèsia)― 国家あるいは教会内において、為されるべきことがらについて自らの意見を述べる自由 ― という言葉が使われることはあるが、宗教的複数性を認める態度を意味する「寛容」はまった見出し得ない。中世において、異端者あるいは不信仰者について « tolérer » という言葉が使われるときは、常にその語源的意味にしたがって、つまり、「現在のところ排除できない悪に忍耐を以って耐える」という意味においてなのであり、「違いを認める」という意味はそこにほとんどないと言っていい。中世においては、宗教的な事柄は個人の内面に属する問題ではなく、神学的に誤った考えを有っている人間をいわゆる「寛容をもって」許容することは、教会という共同体の存立を脅かしかねないものとして排除されなくてはならなかったのである。
 以上のような記述の後にトマス・アクィナスの『神学大全』からの引用がいくつかあって、今日的観点から見ても倫理学的問題として検討に値する論点が提示されているのであるが、それらについてはまだ何れ別の機会に話題にすることにして、今日のところは、上記のパレーシアについて一言付け加えて記事を閉じることにする。
 古代ギリシアにおいては、パレーシアとは「身の危険を冒してでも、公益のために真実を公的な場所で語ること、あるいはそのような勇気ある態度あるいは義務」を意味した。この点に注目して、ミッシェル・フーコーは、言説内容がある基準に照らして真理として認められるかどうか吟味することとは別に、自分が真理と信ずるところを身の危険を顧みずに述べることそのこと、そのようにして自身の真理への関係を大胆に表明し、そのことを通じて他者の感化を図ることそのことを哲学的態度として、一九八三年秋学期にカリフォルニア大学バークレー校で行なった「言説と真理:パレーシアについての問題提起」(“Discourse and Truth : the Problematization of Parrhesia”)と題された六回の講義で詳細にパレーシア概念を分析している(この英語での講義録は、出席者の一人のノートから起こされたもので、フーコーの校閲を経ていないが、こちらのサイトで全文閲覧可能であり、PDF版がダウンロードできるようにもなっている)。