内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「天の原ふりさけみれば」― 現代フランスで遣唐留学生阿倍仲麻呂の生涯を想う

2014-10-10 18:58:06 | 講義の余白から

 古代史の講義は今日から奈良時代に入った。八世紀に入った頃の唐の長安を中心とした東アジアの政治的・文化的状況を概観した後、当時の遣唐使について話す。平城京の時代は七十年余りと短いが、この間に六回も遣唐使が派遣されている。教科書には、遣唐使に加わった留学生のことが出てくるが、この語には「るがくしょう」と振り仮名が振られているから、「りゅうがくせい」と学生たちが読み間違える心配はない。だからこそ、学生たちは、自分たちが将来日本の大学で学ぶことになればなるであろう「りゅうがくせい」と当時の日本の「るがくしょう」は、どう違うのかということがすぐに問題になる。古代の留学生とはどんな人たちで、どんな目的で、どれくらい中国に滞在したのだろうか。
 そこで、新羅との関係が悪化した後、遣唐使がどれほど危険な航路を取らなければならなかったかを教科書の地図を見ながら説明する。当時の造船技術と航海術の未熟さゆえに、東シナ海を横断する「南路」は、まさに命がけの航路であった。そこまでして中国に渡り、しかも留学生たちの中には、何十年と滞在するものもあり、帰国後は中国で学んだ新知識とともに国家の運営に携わる。
 これらのことはすべて、日本人であれば中学高校の歴史の授業で学ぶことで、皆よく知っていることであるが、現代のフランス人学生にとっては、やはり新鮮な驚きといくらかの感動を与えることのようである。
 特に、とうとう日本に帰国せずに中国で生涯を終えた元留学生の話をしたときには、自分自身が現在留学生である韓国人や中国人の学生たちや移民の子としてフランスに暮らす学生たちは殊に心に触れるものがあったように見受けた。教科書の脚注には、「遣唐留学生だった阿倍仲麻呂は帰国の舟の遭難で唐にとどまり、唐の玄宗皇帝に重用されて高官にのぼり、詩人王維・李白らとも交流して、その地で客死した」とあるだけなのだが、『百人一首』にある阿倍仲麻呂のかの有名な和歌「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」を引用し、その出典である『古今集』の左注を紹介し、どのような経緯で仲麻呂が結局日本には帰らず、半世紀を超える長きにわたって中国にとどまり、そこで生涯を終えたかを少し詳しく話した時には、本当に教室が水を打ったように静まり返り、皆話に聴き入っていた。
 その話を終えるとすぐに、毎回よく予習してきていて、漢字の読解はクラスの中で飛び抜けているが、フランス語の方にはちょっと不安があり、毎週私にテキストの仏訳の添削を頼んでくる韓国人の女子留学生が、「先生、彼はそれで幸福だったのでしょうか」と物思わしげに質問してきた。答えようもなく、「少なくとも、中国宮廷社会の中でその才能と人格を認められていたことは確かだし、超一流の詩人たちとも交流があったわけだから、まったく不幸だったわけではないだろうけれど、実のところ心中どうだったのだろうね」と問いを投げ返すにとどめた。
 上に引いた和歌の制作事情については諸説あり、単純に望郷歌と考えるわけにもいかないようだが、そういう専門家たちの間の議論はともかく、阿倍仲麻呂のような日本人が当時いたのだということが学生たちの心に残ってくれれば、今日の講義はその目的を達したと言える。