内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鴨散歩 ― 朝の通勤途中の風景より

2015-10-03 00:04:04 | 写真

 自転車を購入して以来、大学への通勤手段は自転車である。
 欧州評議会と欧州人権裁判所の間の緩やかな坂道を登り切って、左手一キロほど先のライン川へと注ぐリル川に架かる橋を渡ったところで、右手に折れ、オランジュリー公園を背にして、現代建築の世界的な代表作の一つに数えられる欧州議会を向こう岸に見る川沿いの歩行者・自転車専用道を街の中心部に向かって下っていく。
 今日の一枚は、その欧州議会の全面ガラス張りの壁面に反射する朝日が眩しい時刻に、その建物を背景に川の穏やかな流れの上を優雅に散歩している鴨たちを前景にしている。もっと鴨たちにピントをしっかり合わせたかったのだが、オートフォーカスでは水面と鴨との識別が難しいのか、何枚撮ってもピタリと合わなかった。こういうときはマニュアルで合わせるしかないのでしょうか。

 (写真はその上でクリックすると拡大されます)

 


クダラナ日記(2)― 「じどり」違い

2015-10-03 00:00:02 | 雑感

 日本語は母音も子音も数があまり多くない。その結果として、同音異義語が多い。適切な漢字を使って書かれた文章であれば、すぐにそれらを識別できるが、耳で聞いているだけだと、日本人だって取り違えてしまうことは少なくない。
 例えば、ある会話の中で聞いただけの言葉を別の同音異義語と取り違えて、話者の意図とは何の関係もないことを想像してしまうなんてこともありうる。とりわけ、その同音異義語の一つが最近になって使われるようになった新語だと、なおのことそのような取り違えが発生しやすくなる。そんな状況を、パリのある小洒落たカフェでの男と女の会話として想像してみよう。

 「「じどり」ってあるじゃない」と、ちょっといつも斜に構えて、群れることを嫌う、三十代半ばの彼女が言う。かなり美人である(どんな美人かは、皆さんお好きな女優さんでも想像してください)。
 「ああ、そうだね、よく聞くよねぇ」って、一応知ったかぶりをして話を合わせた私だが、実は、この時点で、私の脳内の思考回路は次のような観念連合を実行していた。「じどり」→「地鶏」(ぢどり)→「焼き鳥」→「美味しい」→「食べたい!」
 「あれ、ムカつくのよね」
 「どうして? 美味しいと思うけどなあ」
 私の反応に怪訝な表情をしつつも、彼女は続ける。
 「なにかっていうと、どこでも「じどり」よ。あれって安っぽいナルシストでしょ。見てるとイライラしてくるのよ」
 内心私は、う~ん、どうして地鶏を食べることがナルシストになるのか、それに腹を立てる彼女の気持ちも理解に苦しんだが、当たり障りのないように、
 「でも、それってさぁ、個人の自由でしょ」
 「それは認めるわよ。でも何であんなに自分をとらなきゃいけないの。それに、こっちは頼んでもいないし全然欲しくもないのに、携帯で送りつけてくるのよ」
 だんだん話がわからなくなってきた私は、次のように推論して会話の整合性を保とうとした。ああそうか、自分で食べるだけじゃあ満足できなくなって、人にまで携帯を使って注文して宅配便で送りつけてくる女性がいるんだ、と。
 「もう、どこでも「じどり」よ。自宅でも居酒屋でも職場でも電車中でも、トイレの中でもよ。もう、ばっかみたい!」
 職場で地鶏を注文して食べるところまではついていけるが、電車の中はちょっと想像しにくいし、ましてやトイレの中はありえんよなぁ、と途方に暮れつつ、
 「トイレは行き過ぎだよねぇ。第一、美味しくないじゃん。そんなとこで食べても。やっぱり居酒屋でビールを飲みながらいいよねぇ」
 この私の反応を聞いて、私が全然話がわかっていなかったことに彼女はようやく気づく。
 「あのねぇ、私が話しているのは「自撮り」! こうするのよ」と、やおら自分の携帯を取り出し、自分を写して、そのなかなか綺麗に撮れている写真を私の鼻先に突きつけながら、
 「これが「自撮り」。わかった。もう話になんないだから」
 と、プンプン怒って、
 「ここ払っといてね」
 と、一人でさっさとカフェを出て行ってしまったのでした。