内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

無常観、あるいは英雄的ニヒリズム

2015-10-16 04:37:35 | 講義の余白から

 今年度前期の修士の一二年合同演習では、丸山眞男の『日本の思想』の最初の章「日本の思想」を読んでいる。同書中一番長く、かつ内容的に難しい。同書について、むしろ最後の章から逆に読み上げていった方が理解しやすく、挫折しにくい、とよく言われる。それを承知の上で、一ページ目から読み始めた。
 この演習は、来年二月の法政大学の哲学科の学生たちとの合同演習の準備と口頭発表能力訓練という二重の目的を持っているので、原則として日本語で行なう。難しくて立ち入った説明が必要なところはフランス語を使うときもあるが、一回二時間の演習中、八割から九割は日本語である。私だけではなく、出席している六名の学生たちも、発言は原則として日本語でなければならない。
 二年生の三人は、この八月まで一年間日本の大学に留学していたから、一年生と比べると聴解能力は格段に上だし、かなりよく喋れる学生もいる。しかし、それにしても「日本の思想」の読解には難儀している。ましてや一年生にとっては、ただテキストを読んで理解するだけでも大変なのに、日本語で議論しなければならないのであるから、この演習はとても負担が大きい。
 当初の予定では、毎回必ず全員にテキストの内容説明させる予定だったのだが、内容理解以前に、語彙・構文が難物で、一週間で二頁準備してくるだけでも他の勉強ができなくなるほど大変だと学生側から悲鳴が上がったので、こちらも譲歩して、一回に読む量は半分にして、内容の理解を深めるための議論を中心にすることにした。
 議論とは言っても、最初の数回は私の説明が中心だったのだが、昨日は、先週読んだ「逆説と反語の機能転換」について、あらかじめ日本語で意見をA4一枚に自由に書かせて提出させ、それをもとに議論した。六人それぞれ、なかなかおもしろい意見を出してくれて、私の方もそれに応じて自由に論じ、出席者全員にとってかなり手応えのある演習であった。
 その中でも、一年生の一人が、まだ日本語発表能力は覚束ないのだが、自分の考えてきたことを発表するためによく準備してきていた。日本における無常観の固有性を仏教の無常観と区別することで際立たせ、そこに無常なこの世からの解脱や救済の探求ではなく、生の全側面をそのまま受け入れて生きていく積極性を認め、それがニーチェの言う英雄的なニヒリズムに似ていると指摘した。つまり、ヨーロッパ起源の反語が日本人の庶民的な感覚との順応性のためにその本来の機能を失ってしまうという否定的な側面から問題を見るのではなく、無常感から無常観への深化のなかに積極的な思想性を読み取ろうと試みていたのである。
 それを受けて、私の方では、そのような積極性の可能性の条件については、日本人の自然観を考察することでより深い理解が得られるであろうと応じた。学生たち、とくに一年生たちにもわかるように、できるだけ易しい言葉を選び、具体例も挙げながら、ゆっくりと同じ問題を繰り返し考察し直すことは、私にとってもよき「演習」である。

 

   

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