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昨日の引用の続きを再読しよう。「ヘテロトピー」(異所あるいは異空間のこと。フランス語の音写としては、「エテロトピー」の方が忠実だが、ここでも英語式に音写する)としての鏡について述べられた箇所である。
Mais c’est également une hétérotopie, dans la mesure où le miroir existe réellement, et où il a, sur la place que j’occupe, une sorte d’effet en retour ; c’est à partir du miroir que je me découvre absent à la place où je suis puisque je me vois là-bas. À partir de ce regard qui en quelque sorte se porte sur moi, du fond de cet espace virtuel qui est de l’autre côté de la glace, je reviens vers moi et je recommence à porter mes yeux vers moi-même et à me reconstituer là où je suis ; le miroir fonctionne comme une hétérotopie en ce sens qu’il rend cette place que j’occupe au moment où je me regarde dans la glace, à la fois absolument réelle, en liaison avec tout l’espace qui l’entoure, et absolument irréelle, puisqu’elle est obligée, pour être perçue, de passer par ce point virtuel qui est là-bas.
鏡は、また、ヘテロトピーでもある。現実に存在し、私が居るこの場所への一種の回帰的実効性を鏡が有っているからである。つまり、鏡によって、私は私を鏡の向こう側に見ているのだから、私が今こうして居る場所に私は「居ない」ことに気づかされる。この鏡の向こうの虚空間の底から、いわば私に向かって注がれた眼差しによって、私は己へと回帰し、己自身へと己の眼を向け、私が居る場所に自分を再構成し始める。
鏡がヘテロトピーとして機能するというのは、次のような意味においてである。鏡は、私が鏡の中に私を見ているそのときに、私が占めているこの場所を、それを取り巻く全空間との関係において、絶対的に現実的なものにするが、それと同時に、その場所が知覚されるためには、鏡の向う側にある虚像点を介さなければならないがために、その同じ私の占めている場所を絶対的に非現実的なものにもしている。
鏡は、この意味で、絶対矛盾的自己同一の場所だと言うことができる。西田が場所の論理を説明するのに多用していた鏡のメタファーと、フーコーのヘテロトピーの説明との間にいくつかの共通点を見出すことができるのは、だから、単なる偶然ではないのである。かくして、フーコーによるユートピアとヘテロトピーという両義性を有つものとしての鏡の説明を辿り直すことによって、私たちは、意外にも、西田哲学へと通じる「地下道」を発見したことになる。
それだけではない。ヘテロトピーとしての鏡の持っている本質的な媒介性は、田辺において絶対媒介の弁証法に他ならない種の論理の構造を照らし出す一つの強力な光源となってくれる。
このように、いささかの強引さは承知の上で、日仏の哲学者たちを共時的に構造化して読み直すこと、それが私の哲学の「主戦場」である。