内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

日本語の難しさ(2) 漱石の美しい仏訳、そして『徒然草』第百九段を想起する

2015-10-28 04:07:42 | 日本語について

  

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 私がつい数日前につくづくと実感した日本語の難しさは、昨日の記事で取り上げた丸山眞男の文章のそれとは別種の難しさである。

 漱石の仏訳者として数十年間に渡って素晴らしい仕事をしてこられ、それ以外の日本文学の翻訳によっても多大な貢献をしてこられた方を存じ上げている。何度かお目にかかってお話をうかがったこともある。豊かな語彙を操り、ユーモアに富み、アイロニーのスパイスにも欠けていない見事な日本語で、止めどなくお話しになる方である。日本在住四十年以上であり、ご主人は日本人である。その方の漱石仏訳は、出版されるとすぐに買うことにしている。
 今月、一九二六年に三巻の巻物として出版された毛筆で筆写された『草枕』に付されていた三十点ほどの絵画すべてを再録した新仏訳 Oreiller d’herbe ou le Voyage poétique が出版された(こちらを参照されたし)。大変美しい絵画に彩られたこの見事な仏訳で『草枕』を読むのは、一つの新たな『草枕』の読書経験と言っても過言ではないであろう。
 その同じ方が Une journée de début d’automne という漱石の仏訳エッセイ集を二〇一二年に出版されている(その二年後の二〇一四年に同書のポッシュ版が刊行されている)。このエッセイ集のタイトルは、ちょうどその百年前に発表された漱石の随筆「初秋の一日」から取られている。全部で七つの長短のエッセイが収めれらているのだが、その中に、漱石の数ある随筆の中でも私にとって最も愛着のある文章の一つである「ケーベル先生」を見出して、嬉しく思った。漱石のケーベル先生に対する敬愛の念が隅々まで染み通った、まことに滋味溢れる名随筆である。
 この随筆の原文と仏訳とを比較しながら読んでみた。その名訳に感嘆しつつ、最後の段落まで来たとき、私は我が目を疑った。思わず、「まさか、うそでしょ」と声に出てしまった。
 これまで拙ブログを読んできてくださった方ならわかっていただけると思うが、私は他人の粗探しをして、悦に入るような人間ではない。むしろ翻訳の大変さはよくわかっているつもりだし、そもそも完璧な翻訳などありえない。
 しかし、そのとき、何か踊りの名手が基本的な所作のところで思わずバランスを崩してしまったのを図らずも見てしまったかのような驚きを禁じ得なかった。そして、『徒然草』第百九段の高名の木登りの一言、「あやまちは、安き所に成りて、必ず仕る事に候ふ」を思い出さざるを得なかった。