内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

滔々たるライン川の流れのほとりにて

2015-10-08 04:05:20 | 写真

 昨日午後四時頃、今日の修士の演習の準備を終えた後、自宅から自転車で15分ほどのところにあるロベルソーの森(Forêt de la Robertsau、この森のストラスブール市による案内はこちら)に写真を撮りに出かける。
 ライン側沿いに南北方向に縦長に広がる約500ヘクタールの森の中には、樹齢百年以上の木がいたるところに鬱蒼と茂っている。主要な自転車・歩行者専用道路は舗装されているが、それらの道路から毛細血管のように樹々の間を縫うように小道が広がっている。気の向くままにそれらの道を走っていると、森の奥で小川や沼に出くわしたり、思わぬ景色が突然開けたり、飽きることがない。森の中をどこからでもよいから東の方へと向う小道に逸れて進めば、やがてライン川のほとりに出る。
 今日の一枚は、ライン川の土手からのドイツ側に向かった眺望。ライン川は満々と水を湛えて静かに北へと流れていく。写真では雲に隠れて見えないが、よく晴れた日には、シュヴァルツヴァルトの稜線が彼方に綺麗に見える。

(写真はその上でクリックすると拡大されます) 

 


技術的身体の制作による世界の創造 ― パスカルと西田(7)

2015-10-08 03:58:47 | 哲学

 「具体的世界は作られたものから作るものへと創造的に動き行くのである」と西田が言うとき、それは、世界は本来的に創造的飛躍を含んでいるということである。それまでそこにはなかったものの到来を無限に受け入れるのが具体的世界であり、歴史的世界であると西田は考える。
 その飛躍を具体的にもたらすものが「技術的身体」であり、この身体の「制作」によって、世界に新たな形がもたらされる。生物的世界を物理的化学的世界に還元することはできない。後者によって、前者の現実的な多様性は説明できない。物理的化学的世界においては「作られたもの」でしかない身体が、「作るもの」として、それまでの物理的化学的世界にはなかった形を「制作」するとき、その制作的世界が歴史的生命の世界に他ならない。言い換えれば、この「制作」によってはじめて、物理的化学的身体は「歴史的身体」になる。
 世界を円のメタファーによって西田が考えていたとき、たとえ中心がいたるところにあり、円周がどこにもない無限で無数の円を考えたとしても、そのすべての中心点は同一の非時間的な平面上に含まれている。そこから出ることはできない。「永遠の今」を表象することはできても、その自己限定から生まれる時間が表象できない。言い換えれば、円においてはすべてが既に与えられている。
 円のメタファーと鏡のそれとが西田においては密接に結びついており、「映す」「包む」等の動詞がそれに連動して頻用されることもそれと無関係ではない。そこに創造の契機は内包されていない。鏡は、「映す」ことはできても、「作る」ことはできない。
 「歴史的空間は平面的ではなくして球面的でなければならない」と西田が言うとき、具体的歴史的世界は、「作られたもの」の平面から飛躍する無数の方向性を持ったベクトルを孕んでいなくてはならないと考えてのことである。時間を内包し、無数の方向に無限に広がっていく球面のメタファーは、ある平面上の無数の点である「作られたもの」がその平面から飛躍して「作るもの」となる創造の契機を含んだ世界像に対応している。