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昨日の記事で話題にした漱石の随筆「ケーベル先生」の問題箇所である最後の段落を、最後の一文を除いて、全集版(1994年)から引用する。
京都の深田教授が先生の家にゐる頃、何時でも閑な時に晩餐を食べに来いと云はれてから、行かずに経過した月日を数へるともう四年以上になる。漸く其約を果して安倍君と一所に大きな暗い夜の中に出た時、余は先生は是から先、もう何年位日本に居る積だらうと考へた。
仏訳はこうなっている。
A l’époque où le professeur Fukada, qui est de Kyoto, habitait chez Koeber, celui-ci lui avait dit qu’il pouvait venir dîner à sa table n’importe quand s’il n’avait rien d’autre à faire et quatre ans s’étaient écoulés sans qu’il ait répondu à son invitation. A présent qu’il avait enfin concrétisé la proposition, quand je me suis de mon côté retrouvé dans la rue en compagnie d’Abe, dans la grande nuit profonde, je me suis demandé combien d’années encore le professeur avait l’intention de rester au Japon.
「ケーベル先生」の文章全体を難なく理解でき、かつフランス語初級を終えられた方なら、この仏訳のどこに問題があるか、すぐにおわかりになるであろう。訳文中の « il » « lui » は、« le professeur Fukada » を指している。ところが、日本語原文を読めば、少なくともほとんどすべての日本人にとって自明なことは、ケーベル先生が晩餐に何時でもよいから来いと招いたのは、漱石であり、その招待に四年以上応えなかったのも漱石であり、どちらも深田教授ではないということである。
そもそも、当時その家に住んでいた人間に、いつでもよいから晩餐に「来い」などと声をかけるのも奇妙な話ではないか。それに、「漸く其約を果して安倍君と一所に大きな暗い夜の中に出た時」とあるのだから、そこからだけでも、「其」約束を果たしたのは、筆者漱石だと確定できる。それに、随筆の冒頭から、漱石が「安倍君」と一緒にケーベル先生を訪問するところであることは、既知の情報である。
問題は、文脈からしてほとんど誤解の余地のない箇所であるにもかかわらず、どうしてこのような「初歩的な」勘違いが日本語に通暁しているはずの翻訳者に起こってしまったのか、ということである。
もう一度、問題の文章を見てみよう。
京都の深田教授が先生の家にゐる頃、何時でも閑な時に晩餐を食べに来いと云はれてから、行かずに経過した月日を数へるともう四年以上になる。
「云はれた」という受動態の動詞に対する主語がない。誰が誰に言われたのか。あるいは、この「云はれた」を尊敬表現と見なすこともできなくはない。その場合、誰が誰に仰られたのか。「行かず」の主語もない。誰が「行かず」に四年以上過ごしたのか。
この随筆の文脈からまったく切り離して、この文だけを読み、文法的な可能性だけを考えると、「深田教授がケーベル先生に」言われ、「深田教授が行かず」にしまったと取ることも間違いだとは言えない。しかし、文法的には不可能ではなくても、文脈上あり得ない、と、ほとんどすべての日本人は即座に断定することであろう。なぜ、「欠けている」文法的要素について、そんなに自信を持って断定できるのか。
このエッセイは、漱石のケーベル先生についての思いを述べている文章である。その最後の段落に来て、もしこの文脈の中でその主題との関係で特に重要ではない人物が主語である文があったとすれば、その主語が省略されるということは日本語でも通常はない。誰のことか誤解を招くからだ。逆に言えば、日本語では、その文章の主題は、一旦提示されれば、それが変更されないかぎり、明示されなくても、常に前提され、書き手・話し手と読み手・聞き手とに共有されている。
この文章の主題は、言い換えれば、この文章全体を浸している「エーテル」は、漱石のケーベル先生に対する敬愛の念である。この前提に基づいて、主語その他の文法要素の省略が実行される。もちろん、漱石がそう意識して実行したのではない。そして、それでも、読み手はその前提を漱石と共有できるのである。それができないと、たちまち文章の理解に支障をきたす。日本語とはそういうものなのだ、あるいは、少なくとも、これまでの日本語はそうなのだ、と言わざるを得ない。